物書き編。何を書いて居るか/読んで居るか等。
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 二年半くらい前に書いたヤツ――ですね。原文のまま。
 なんとか文庫で百枚程度の中編。
 懐古自覚しつつ晒しです。




 帰路。樹の根を避けて歩を進める。
 時節は真冬、そして夜。
 その森の木々は枯れ木が襲い掛かってくるような姿勢で枝を伸ばし、雰囲気は大烏でも鳴きそうな風情だった。ロマンチッカーなオレとしては、早く雪でも降って、積もって、全く別のジャンルの物語の背景と化して欲しい。
 この森の中で人の姿を見た事は無い。――それは、少なくともオレは、という話だが、オレの自宅から出られないあいつも見た事は無いだろうし、オレにその家を貸したっきりで様子を見に来る事も少ないあの人だって同じことだろう。
 ここでは、およそ生きたモノの匂いがしない。
 大きな烏が鳴きそうだと言ったそのイメージも、腐肉だ。
 そんな禍々しい森の中に位置するオレの自宅は、いわゆる大邸宅ではなくそのもう少し上のランクの屋敷――その中でも、洋館に分類されるものだ。
 東西南北。四方に棟を一つづつ構え、それを門の正面以外を三本の通路で繋ぐ造りで中心の余白には巨大な天使か悪魔かの像が納まる。わかりやすく豪華。でも古い。
 所在地は望月市【もちづきし】。“市”で終わる。それ以後の番地云々はない。表示出来ない。それでもまかり通っているということは、市役所がウチに手出しすることを恐れているからだろう。
 別に、ごく普通ーの家庭なんだけどなぁ。二人暮しの。
 出るはずのないゾンビかフランケンシュタインか何かを探しつつ歩くこと五分。正面門が見えてくる。
 茨か有刺鉄線じみた、いやに棘々しい意匠の鉄格子のゲートは縦長のアーチ型。オレの身長の倍の高さはあってその両脇から敷地全体を囲う壁も同じくらいの高さがあり、ゲートと同じデザインの鉄柵が上に設けてある。
 それを抜けて玄関までが高校の校庭の端から端までくらいありやがる。もう学校教育とは縁切りたいんだけど。
 中央まで歩く。中心にそびえる天使か悪魔の像は片翼。羽毛を無数に生やした形の石の翼がいつ落ちたんだったか像の台座の横の、隙間から草を生やす石畳にめりこんでいて所々が悪趣味に風化している。――勿論ただの時間の仕業だが。
 紅い三日月の下、オレの自宅はダークな波動をびんびん出している。
 向かって左奥、西棟の一室からだけ橙色の灯りが漏れている。暖炉を炊いてるのだろうが、多分今あそこには誰もいない。
 周囲が深い森の為他に灯りなんてあるはずもなく、全てが闇に晒され吐く息の白すら呑みこまれる。実際そういう類の種族が住まうこの家だが、それにしても零辞さん、どうやってこんな所を見つけたんだ。
 元は魔術師の隠れ家とされていたこの場所だが、今では陣も結界も張られておらず都会のスモッグと奇異の視線に晒されている。それでも心霊スポットとしてテレビに紹介されたり、近所の餓鬼が秘密基地にしたりしないのはひとえにこの家の危険すぎる雰囲気によるものだと思う。確かにここは、格が違う気がした。
 オレは何故か、その雰囲気にもとから慣れていたが。  
 玄関の豪奢なつくりの大扉の前まで来て、オレは帰宅に覚悟を決める。
 が、突っ込んでくるつもりのそれを避ける気はない。後ろに飛んで勢いを殺してあくまで受ける。――さもないと向こうが石畳に叩きつけられちまう。鳩尾には少し我慢してもらう他ない。そこまで計算づくでやんってんのか、なんて可愛い習慣なんだ畜生め、シット。
 十二時を過ぎればこんな苦労もなくなるが、奴さんがお腹を空かせているから仕方ない。――つーかそんな時間まで働けない。寒いし。
 大扉をこちら側から開いてもいいが、そうしたら向こうにぶつかるだろうからよす。今の奴は、ドアの向こう側の真正面で射出体制を整えているのだから。
 足裏に過不足ない緊張――つまりは体当たりの勢いを遊び程度に殺す為の力貯め――を込めて、さあ叫ぼう。帰宅の挨拶を。
「ただい」
「おかえりなさ――――い!」
 
 ――不意打ち。

 巨大な大扉が向こう側へ観音開きになってそこから大口径のライフル弾が放たれた。
 予定通りにベクトルをベクトルで減少させられなかったオレは、若干軽めな質量が生み出す壮絶な衝撃を上体に受けてすっ飛んだ。飛行中、しっかりと上半身にか細い腕にしがみつかれているのがわかる。
 落ちて、草ぼうぼうなる石畳の敷かれる通路脇に背中をしこたま打った。しかし石畳の方でなくて良かった。一応コートは無事だ。でも腹は駄目だ。
 ぐったりとして口から魂が抜けかけているオレをよそに、その元凶たる少女は改めて言った。
「おかえりなさい、ソラキ」
「……ああ、ただいま、リリス」
 リリスは満足げに、栗鼠みたいに大きくて丸い暗緑色の瞳を細めて喜ぶ。ついこの間ふと「出目金」とつぶやきを漏らした所泣いて屋敷の奥へ逃げ、発見した時には自分の目をナイフで潰そうとしていたので慌てて止めたことを思い出す。
 腰ほどまである擦り硝子のような銀髪を黒いリボンで一つの巨大な三つ編みにし、移動時はのぼりのようにたなびかす仕組み――そうしているのは本人の意思だ――で、ほとんどドレスに近い服装には、袖、及びスカートの裾に白いレースをあしらい、上半身には体の中心線にそって小さなリボンが並んでいる。……勿論オーダーメイドである。
 全てが、本人がせがんだのでオレがそうした、という下手な言い訳に似た事実にもとづいて成り立っている。とかく彼女は、いや彼女の半分は「かわいいものだいすき」なのだ。見る分には愛くるしくて真に良いが、その影で泣かされるのもオレで、可愛らしさと金の工面による苦労が相殺している。
 愛くるしいくらいで止まるあたりが、相殺の大きな理由なのだろう。
 甲斐性も責任も、とどめに意欲すらもどうしてか持てないオレはマチガイを起こしていない。 
 ――夜の七時。
 そんな少女の最終形態みたいな人間に見事に草むらに押し倒されるのがオレのここ数年の日常。
 数年前オレの元の日常を文字通り喰らい尽くしたそいつと、成り行きで一緒に暮らしている。
 そう仕向けたのは零辞【れいじ】さんで、オレはなんも自分の意思で決めたりはしてないが、ともかく、
 真っ当(?)な生活が送れているので良し。
 自分で食いぶちを稼げているので良し、だ。
 と、今の状況に順応しているというか甘んじている。元の日常よりは恐ろしく幸せだから、それでいいと思う。
 いかにも現代のフリーターって感じだな。シット。
 草を払って立ち上がると、リリスはにこにこ顔で腕を組んでくる。 
 そのまま洋館へ入って、入り口の側にあるフックにコートをかけようとして止めた。背中に、雑草の緑が痣になってしまっていたからだ。それを手に持って、回廊をどこまでも続く赤絨毯を踏みしめてともかくもダイニングへ。
 この館は『日本の一般人が一瞬にして順応出来る』造りに改装されている。
 前の宿主はなんと、この洋館を『完膚なきまでに本物らしく』造っていた為とてもオレが生活していけるような場所ではなかったからだ。
 故に、元々食事を作る場として存在したであろう場所を潰し、日本の和洋折衷臭いキッチンに改造し、勿論電気を引き、洗濯機や自動湯沸かし機すら据え付けた。人によっては「台無しだ!」と抗議するかもしれないが、「じゃああんた元のここで生活してみろ」の一言で黙るだろう。それだけ元のこの館の姿は北欧のどこかの文化財並みに本格的過ぎた。逆に今の此処は、もしかすると外見だけ古びた洋館のはりぼてめいたものなのかもしれない。
 が、雰囲気だけは十分にある。
 部屋と廊下の灯りは全てランプと蝋燭だし、暖炉も残る。お手伝いさんだかメイドさんだかがいない限り、絶対に使用しないような機能ばかりだ。リリスはそういう古臭い家具類が大好きなのだが、オレが常人基準の生活感ある東棟にずっといるので、今の時期は自室の暖炉だけ炊いて残してこっちの部屋へ来る。
 そして東棟に引きこもりっきりのオレは、この館の全貌を未だ知らなかったりする。
「ソラキ、ごめんなさい、ご飯、作ってください」
 ソファに寝転がって呆としていると、リリスがたまりかねたように夕食の催促をして来た。……こいつは他の家事はそこそこに、料理だけは絶対に無理だ。同居の初日いやに張り切っていたので朝食を任せてみると、指を切りまくるはフライパンを異常加熱して爆砕させるは、試みた最終手段のレトルト食品の味が変わっていたりの、乱痴気騒ぎに陥ったからだ。
 それ以来、オレはリリスに料理の練習すら許していない。最低限の備品が減ってしまうと零辞さんに申し訳が立たん。
「ああごめん、しばし待って」
 溜息を一つ、エプロンをつけてキッチンに立つ。
 じゃあどうしようか……奴さん、大分腹減ってるっぽいから手早く出来るものでいいか、と。
 カウンターの淵を力強く握り、頭だけ出してこちらに期待の眼差しを送る少女をよそに、今夜は(すまん)チャーハンである。
  
                ◆

 レンゲの上に桜海老だけ乗せて、ためつすがめつしているリリスが口を開いた。
「お仕事、今日はどうだったんですか?」
 レンゲの先をくわえて、オレは渋く返す。
「最近は書類の整理ばっかだな。平和でいい証拠なんじゃないか、生き死に云々が関わってない事件ばっかだし。――ああでも、ちょっとだるい依頼も来たっけ」
「どんなのですか? 妖精さんが出たんですか!? それならお友達になりたいです!」
 違ぇよ。夢見るなよ餓鬼。妖精なんてのはお前と一緒で、十年に一度もこっちに来ないらしいぞ。
「……。怪盗だって。古い道具を盗みまくってるんだと」
 リリスは残念そうに、わかりやすく落ち込んだ。構わず続けた。
「顔が割れてるのに捕まってない、と。警察と連携取るかもしれないけど、でもそれも、事後処理は全部こっちだろうな」
「どんなひとなんですか…?」
「こんなひと」
 ポケットから、ぽい、と、食卓へと写真を投げた。リリスはそれを受け取り、
「綺麗なひと……。でも、こんなに短いスカートで大丈夫なんでしょうか?」
 的外れな感想を言う。それを無視し、さらに続けた。
「捕まらない理由は、手の内がまるでわからないからだ。賊本人は外にいたのに、予告通りモノがなくなっているってのが大きな要因だろう。勿論向こうさんはあちらのヒトなんだろうが、零辞さんによると術ってのは、個人個人で形態が全然違うらしいからな。判断すべき要素も無い」
「追跡は、したんですか?」
 ――よし、乗って来た。ぼけぼけしているようで、実はこいつ相当に頭がキレる。もう一人は逆に力ずくな感じだが。
「勿論。警察が。ヘリですら行ったらしいけどまかれたとさ。足で」
「出鱈目ですね……。運動能力を強くしても、そんなのって反則的なレベルのような気がします」
「……違いが良くわかんないけど、ともかく、何か、運動能力の強化とは違った仕掛けで逃げたんだっつーのと、路地を曲がった所――上空のヘリと、追う警官、その死角を全部読みきって消えた、っつーのが零辞さんの見解だ」
 基本的に『あちらのヒト』は、術を研究と戦闘の場においてしか使わないらしい。だから犯人が、一般人である警官達に魔術の仕掛けを見せないのは、当然の事だった。
 にしても、綱渡りより危ない事をする姉ちゃんだ。術の使用目的は個人の勝手、と放任されているからいいが、巷に秘密を広めうる事態に陥ったら、その神秘を確固たる不可思議として保管しておきたい連合を、敵に回すことになる。……らしい。全部、零辞さんからの伝聞だ。
「きょうはんがいると思います」
 きぱっとリリスは断言した。
「――なんで?」
「だってそうじゃないですか。へりこぷたーと警察の人の位置を全部把握して、連絡出来る人がいないとこんなの成り立ちません」
「成るほど、確かに。でも、何か術を使ったっていうんじゃないのか? 千里眼とかな」
 冗談まじりにそう言ったが、実際、オレは術の知識に関しては殊うとい。それも当然といえば当然で、学ぶべき所で学んだ経験はないので、然るべき知識なんて微塵も持っているはずがないからだ。第一、オレの今までの生涯――十九年だ――如きでは、自分が目指す研究の万分の一も完成しない、と……零辞さんに聞いた。
 リリスは口をぽかりと開けた。呆れているのだ。
「それはどうにかできる問題じゃないんですよ? 術っていうのはあくまで、自然にしろ物にしろ人にしろ『あやつるちから』、血と努力でどうにかなる領域ですから、視点を変える、見通す、なんていうのは、かみさまに与えられた能力か、超能力の行き過ぎた例です」
 んなこと知るか。いらん知識を増やすな。
「……。じゃあ何か? 連絡係が連絡するちからってのは、術でどうにかなるってのか?」
「やり方はいくつもありますよ。式に織り込んでもいいですし、使い魔にやらせてもいいですし、それに……」
「あー、わかったストップ。ともかく零辞さんに伝えとくよ」
 指折り数える少女を制止して、食卓を立つことにした。キッチンのカウンターに入って、食器用洗剤のキャップを片手で開ける。
 が、
「あの人には教えないでください。あの人はきらいです」
「わかったわかった。オレ一人でどうにかするよ」
 んなこと出来るかボケが。と、スポンジで器をがしがし擦るオレである。
 リリスは「ごちそうさまでした」と手を合わせてお辞儀、食器洗いをオレに任すと、あくびをしながら部屋を出て行こうとする。
「どした? 眠いんなら風呂、先に入れよ」
「いえ、……ふわぁ。私はいいので、ソラキが先にどうぞ」
「――ああ。うん、それじゃあわかった。なんか知らんが、無理するなよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
 にこりと笑って、のろのろと出て行った。
 毎晩毎晩何をしてんだか。一ヶ月前くらいから、リリスの顔にくまが継続して在る気がする。 
 一度なにやってんだと訊いたが、断固として答えようとしなかったのでそれ以来詮索は避けている。
 しかしまあ、いいことなんじゃないだろうか。疲れるほどやるのはどうかと思うが、ココから出られないあいつにとってやることがあるっていうのは。

             ◆

 ――次の日。
 
 出社しようとして嫌な事実にぶつかってしまった。
 オレの職場は零辞さんの自宅。二階に一応のオフィスがあって、そこに仕事道具が全て揃っている。だから、何か仕事を持って帰って来ない限りは手ぶらでいい。
 マフラー巻いて手袋はめて、防寒対策さえして行けばそれでオッケーなん、だが、
 最後に着るはずのコートにゃ、昨日の緑の痣がついているではないか。
 最悪だ。これが上着の一張羅、てなもんで、他にはジャンパーも何も持ってない。
 セーターでも着こんで来るかと玄関口から引き返そうとすると、リリスが「あっ」と顔を輝かせた。こいつ、オレの不幸をあざ笑うつもりなのだろうか。多分違うけど。
「ソラキ、ちょっと待っててくださいね!」
 なんなんだ、と朝の鈍い頭でのろのろと考える内に、リリスはあっという間に玄関の正面にある大階段を巨大三つ編みたなびかせて駆け上って行ってしまった。お姫さま、朝から元気です。
 呆れるくらいのテンションの温度差を感じながらあくびなんかかいて待っていると、リリスは一分足らずで大階段をリバースして来た。腕には何か黒い塊をかかえている。
 息を切らせて、彼女は得意げに塊を広げて見せた。
「これ、着てみてください」
 塊はどでかい布だった。縦横が布団のシーツくらいある。――にしては、リリスの力でもナプキンを敷くくらい軽く広げられていた。
 淵には毛……じゃなくてこりゃあ、ファーではないですか!
「なんだこれ、コートじゃないですかリリス!」
 驚愕した。
 手にとって良く見るとそれには艶があって、全体が黒豹、いや、ビロードみたいな毛皮で出来てる。すげえ。
「どうしたんだ、これ? こんなの、オレの三ヶ月分の給料あっても足らなそうだぞ」
「私が作ったんですよ。ファーだけはあり合わせみたいになっちゃいましたけど……。一日早い、クリスマスプレゼントです」
 作ったとな。
 胸を張るリリスをよそに、オレは再驚愕する。
 明日がクリスマスイヴであるというのも、まるで忘れていた。ウチにゃテレビもカレンダーも携帯もなく、大きなのっぽの古時計だけだからな。
「……つーか待て、そもそもコートってのは作れるものなのか? 魔法少女」
「あー、疑ってますね? 私は料理以外なら、大抵なんでも出来ますよ? そもそもそれはローブですけど、元々が毛皮ですから、裏地と縫い合わせてなんとかなったんです」
 ふみゅ、と鼻息を荒くして得意がるこいつが何をしても驚かないぞと開き直って、そのローブに目をやる。
 ローブ。というよりはそれは、防寒着のようだった。
 フードと、銀製のラグビーボールみたいなボタンが並ぶ襟の合わせ部分、それから腕の袖の全面に、雪のようなファーがついている。
 袖を通してみると、指が辛うじて出るくらいの袖丈、引きずるくらいの裾丈があって、両肩には白色のシルバーアクセサリめいた意匠の十字架(クロス)の紋章が縫い取りしてあった。
 フードを被って玄関口の大鏡を眺めてみると、そこには白髪で紅い目のひょろ長い魔術師がいた。
「…………」
「わあ、すごく似合ってますよ!」
 なんと言ったらいいのだろう。 
 毛皮というのが、『この館にあったもの』らしく薄布を纏っただけのように不思議に軽くて、暖かい。実用性はばっちりだ。
 リリスが十二時までの夜を徹して、一ヶ月余りの時間をかけて作ってくれたことは間違いない。縫い取りの部分だって、並大抵の努力じゃどうにかならない。
 でもな、ちょっとこれ……。
「派手すぎねぇ……?」
「着てくださらないんですか……? 頑張って、作ったのに」
 途端、じわあ、と胸に堅く拳を握ったリリスの目に涙が浮かぶ。
 だが、いつものように逃げはしなかった。傷ついた時、いつも泣いて逃げて謝罪します、なこいつが逃げを打たない。今回の場合、泣いて逃げて切り裂いちゃいます、なはずのこいつが。
 それだけ、この贈り物にかけている訳か。
 ド凄い期待と絶大な不安を乗せた瞳で、こちらをじっと見ている。
「……よぉーし、わかった。着るぞ。オレはこのローブを着る」
 不覚。完膚なきまでに胸討たれてしまった。
 シット。こいつが一生懸命裁縫している所を思い浮かべてしまった。
 リリスは涙を散らして、顔を太陽より眩しく輝かせた。
「ほんとですか!?」
「ああもう、町中闊歩してやるよ。超着こなす。オレはこのローブと一体化する」
 半分やけになるオレをよそに、ほわあ、と夢見ごこちな表情になるリリス。
「ありがとうございます……。私、本当に嬉しいです」
 普通、そういうこと口に出すかなと突っ込もうとしてやめた。暗緑色の瞳とココロは明後日の方を向いてやがる。視線の先には天使でも現われそうだった。
「……ともかく、行って来ます。もう出ないと遅れちまう」
 そこで、は、と現世に引き戻されて彼女は、
「ぇあ、はい、――行ってらっしゃい、早く帰って来てくださいね。淋しいですから」
 いつものことだが、他意なくそんなことを言わないでほしい。何故か有給休暇取る為の電話とかかけたくなってしまう。
 やたら恥ずかしいので扉の閉め様、小さい声でありがとうと言っておいた。

            ◆

 オレの仕事というのは、つまり『不可思議の処理』と言うと一番わかりやすいと思う。
 いや、実際、普通の人には物凄くわかりづらいのだろうからそう言うより他にない、と言った方が正しいのか。
 仕事内容と方針は『あらゆる奇の調査及び出来る範囲での解決。魔術関係を得意とする』とか?
 便宜上「黒種【くろざね】探偵事務所」と名乗っているが、ほとんどの業務が未だ国際魔術師連合と繋がりを持つ零辞さんの連合から舞い込んでくる雑用書類の整理てな所。早く手なんか切っちゃえよ、と言いたい所だが、これは結構な収入になるので背に腹は変えられないのだ。
 だが、零辞さんの所有するこの探偵事務所は、連合とそれ以上の繋がりはない。つまりはローカル、私立探偵なのである。
 連合に紹介される依頼をこなすという手もあったらしいのだが、何故か零辞さんはそうしていない。明日香さんに訊いた所によると、学生時代の連合との確執が原因とか。どろどろ話は聞きたくないし、言いたかったら零辞さんから言うだろうし、その辺への立ち入りはよしている。
 只、魔術師連合に所属する為には相当な資格と技量が必要だから、よほどの理由があったのだろうという事だけは推察出来る。
 事務所について知っているのはこんな所で、オレの自宅同様、零辞さんの多くを語らない性質【たち】あってか不可解な点は多い。
  
 黒い自転車を駆って自転車で望月市駅へ、そこから下り路線へ乗って二つ目の駅が最寄だ。
 望月市駅前は、赤と緑のクリスマスカラー一色だった。
 サンタクロース何人いるんだよ。
 お前等、クリスチャンでもない癖にあんま祝うなよ、と心中で罵っておく。
 でも、この錯覚めいた聖なる雰囲気は、悪くないな。――――と、思うオレには、しっかりと日本人の血が流れている。
 ……移動の間、このゴシックローブのせいでもの凄い奇異の視線を浴びた。

 最寄駅の出口に面した住宅街を歩く事十分で、黒種家にたどり着く。
 一軒家で木造、及び瓦屋根の、二階建ての中流っぽい――そういう言い方は失礼な気もするが――住宅だ。
 擦りガラスのはめ込まれた引き戸の横にある、インターホンではなくチャイムを押すと、中から「はあい」と声がし、明日香さんが出てきた。エプロンの裾で手を拭いている。もしかすると、朝食の後片付けでもしているのかもしれなかった。
 黒種明日香さん。零辞さんの奥さんである。
 一言で言うと美人。いつも目じり下がりな柔和な笑みを浮かべていて、他人のオレに対しても物腰柔らかな態度で接してくれる、母性の権化か菩薩な方。うなじあたりの高さで、いつも藍色のリボンで髪をまとめている。三十路直前だというのにリボンが似合う人ってのは、そうそういないだろう。
 一人っ子だったという明日香さん。だから結婚した時、零辞さんを養子にしてしまったのだという。
 この一軒家に住んでいた明日香さんのご両親はオレが此処に来た時より大分前に他界したらしく、実質ここは養子のはずの零辞さんの家となっている。
 そういや、零辞さんの旧姓ってなんだったか。
「いらっしゃい、おはようございます白さん。――あら、そのコート、どうされたんですか?」
 オレは苦く、笑った。そうすることしか出来なかった。
「おはようございます。あ、ああ――、なんていうか、リリスからのプレゼントだそうです。自作したとかで…」
「お似合いですよ。リリスちゃん頑張ったのね。なんだか本物の魔術師さんみたいで、格好いいわ」
 自作という言葉の妙に気付かず、くすくすと笑う明日香さん。この人も少し天然が入っているせい(断定済み)あってか、ウチに遊びに来た時にはリリスとよく話していた。気が合うんだろう。
 そこでひょい、と、本当の本物の魔術師・零辞さんが居間から現われ、手をひらひらさせながら言った。
「白くんおはようー。――あれ、そのローブどうしたんだい? 随分と本格的じゃないか」
 白髭ではなく、無精髭の魔術師。ぼさぼさの髪をして、モスグリーンのワイシャツの裾はズボンから出ている。全体的にだらしない感じだが、どこか憎めない風情。色男をわざと崩しているような、何と言うか、格好よさが前面に現われているのではなく、にじみ出てくるタイプの人だと思う。
「あ、おはようございます。これは――なんかリリスが、館にあるもので作ったらしくて。クリスマスプレゼントだそうです」
 オレが同じ説明をすると、しかし派手だな、と、零辞さんは眉根を寄せ、顎に手を当てて髭をじょりじょり言わせる。魔術師たる零辞さんも、ローブ自作の事実に驚かなかった。因みにこのヒトは天然じゃあない。……魔術師というのは、服飾の才能も必要とするのだろうか?
「ひょっとしてあいつ、自分の服のデザインとそのローブ、合わせたんじゃないのか? だとしたら君は幸せ者だな。あんなに可愛い娘にそこまで想われているなんて。どうだ白くん、種族の違いなんか乗り越えて、あいつと本格的に一緒になってみるというのは」
 それは、あんたが勧めることじゃあねえよ。
 というかリリスの奴、だからこんな白黒なデザインにしやがったのか。確かにこのローブ、『あいつがあれならオレはこれ』って感じだ。ゴシックロリータの男性編、というべきか。そんなモノは存在しないけど。
 しかしオレは、零辞さんの申し出だけはきちんと断っておいた。
「――やめときます。命がいくつあっても足らなそうですから」
「……そうか、残念だな。まぁ、手綱だけは放すなよ」
 と、零辞さんは二階へ上がって行く。
 オレもそれにのろのろと続いて、ともかく今日の仕事の始まりだ。
 例の賊、が主な議題になるだろうな。と思いつつ、ああここは洋館じゃないんだ。靴を脱がずに上がろうとしてしまった。

                    ◆

 わたしがソファから起き上がった時、針は一つに重なって十二時を示していた。
 茫漠とした思考の侭に、常の惰性がわたしの体を人形の様に動かして、冷厳たる空気をした家の外へ出す。
 空気が冷たいと、何故空気が澄んでいると感じるのだろう。冷たい人間は、暖かい人間よりもきっと荒んでいるっていうのに。 
 今わたしの住んでいる此処は割合と空気が綺麗だから、星の瞬きすら目視することが出来る。――いや、瞬きを視認できない場所の空気が、本来おかしいのだろうか。

 ――どっちでも、いいけれど。
 
 いつもいつも。今みたいに。どうして瑣末な事に思考を巡らせようとするんだろう、わたしは。
 吐息で一瞬にして結露を作りながら鉄の郵便受けを除くと、いつもはそこに無い手紙が在った。いや、届いていた。
 わたしの表情はきっと眠たいままだけれど、今は心の中で微笑んでいる。こうなって。いや、自らこうして。およそ思い出とそのなかのひとたちを見限ってから届いた、これは最初の手紙だったから。
 胸が高鳴る。こう在る限りずっと独りで居続けるだろう事はわかっていたつもりで、やはりどうしようもなく淋しかった。――淋しさっていうものは後悔と同義。しかも、取り返したいモノは絶対に取り返しのつかない果ての例。
 けれど、この心が折れてくれないからわたしは此処にいる。
 わたしはわたしのココロを観測し易い性質にある。きっとその方が生きやすいから。
 …正確に言えば、一人でもないのだけれど。なかなかどうしてこれは無口だと心中でぼやきながら、自分の首にかけられた十字架、その中心で鈍い輝きを放つ純黒の宝石を見やる。
 手紙は国内からのモノだった。80と書かれ、この国の何処かの文化財が描かれた緑色の切手が茶封筒に丁寧に貼り付けてある。差出人はわからない。
 …わたしらしくもなく。はやる気持ちを抑える、という感情を観測しつつ鋏で開封して、取り出した紙片に書かれていたのはたったの一文。
 ――『待ち望んでいた人』から届いた手紙の内容は、
「罠ね」
 わたしはその手紙を焼いてしまった。

             ◆

 ――整然。
 零辞さんの部屋を表す言葉はそれだけで十分だ。
 窓際に並ぶ二つの机の片方には、まるで使用前のコピー用紙の様に「きちんと山積みにされた」連合からの書類とノートパソコン。もう片方はパソコンデスクで、こっちにはデスクトップが鎮座している。
 その反対側の隅にはたった一つの本棚。書籍の量が多すぎて前後二列になってしまっているという訳でもなく、同じ大きさの本が同じ段に在って、且つ全ての段が遊び無く埋まっている。
 この人の身づくろいの駄目さ加減からしてこの部屋の状態は…、畳が敷かれている和室の感じと相まって異常に思える。普通ならば仕事場と住む場所は分けて、ビルの一フロアーだか一室だかを借りてやるものなんじゃないだろうか。世間知らずの餓鬼には、まるでと言っていい程世の中のジョウシキなんてモノはわからないが。
 どちらかが促すでもなく、只いつもの様に各々の座席に座って書類書きを始める。オレがノートの置いてある机、零辞さんは調べ物をしている事が多いからもう一方のデスクトップの方…なのだが、調べ物ってのは、インターネットばかりじゃ足りる筈もなく。――零辞さん曰く、「全世界の文字情報なんかより近所の噂の方がまだ信じる価値がある」とかで、此処を開ける事の方が多い。
 つまりは、オレの此処での役割ってのは「秘密を明かしていい程度の雑用」だと思われる。
本当に要所にチェックや、サインをしていくだけで一日が終わる。
 黙々と作業を進めながら書類に目を落としたまま、零辞さんに尋ねる。
「あの、今日は何処にも出かけないんですか」
「……行くよ……?」
 ……視線をそちらに向けずとも、この男がさぼっており、且つオレの言ったことに対してうわのそらなのは明白だった。ハードディスクが回る音が聞こえて来ない。
 二人して並んで席について既に三十分近く経っている。苛つくというよりは驚いた。零辞さんはこれでも、仕事だけは――こういう言い方もいかがなモノかと思うが――それこそ病的に真面目にやる筈の男だ。実はその辺り尊敬してもいたんだけど…。
 改めて目を向けると、彼はまるで自棄酒でもした酔っ払いの様にキーボードをのけた机の上に突っ伏している。しかもよく聞けば何事かつぶやいている。――凄く危険な感じだ。
「……つ…………怒っ………多ぶ……」
「――あの」
「何?」
 こっちを向きもしねぇ。段々イライラに変わる尊敬心。
「さっきっから、何ぶつぶつ言ってんですか?」
「――あのさ、白君は、魔術ってどういうモノだと思ってる」
 言下の発音は、問いただすと言うよりも答えを得たい、という感じだとオレは一瞬で把握する。これで実際、空気読むのは得意だ。…ってまぁ、この状況じゃ無理ないか。
 付き合ってやるつもりで、けれど深い部分には全く及びたくない内容で、しかし書き込み作業よりはマシかと腕の三つある天秤上でモノをぶらぶらさせてから、オレは当然の答えを返しておいた。
「……訳のわからないもの」
「だろうね。そう言うと思った。君らしい、考える事を破棄したような答えだな」
 ……絡み酒だろうか。
 むっとしながらも、聞き流し気味に付き合うものとして、
「……考えてどうにかなるような事なんですか」
「なるね。でもこれは、精神論で『なんとかなる』って言ってる訳じゃないさ。
 体系の違い、才能の有無、信じる信じないによってカタチは変わるものの、これは只の個人差に近いからね。まぁ一番最後のは、頑固一徹以上の科学者にだけあてはまる項目だが。恐らく語りだしたらきりがなくて、一言で説明も出来る――」
 ――出来るんじゃん。
「――そんなモノなんだよ。だからそういう点では、君の言った事も正解だ。俺の持つ魔術に対する認識すら、きっと只の持論とか一説に過ぎないだろうがね」
「まぁ。どうでもいいですけどね」
 『まぁそう言うなよ』、なんて言葉も許さない。俺は『零辞さんの側に在って』、『決してその世界には立ち入らない』という契約内容でこの仕事を手伝って、しかもリリスの面倒まで見ているのだから。逆に零辞さん側としても、話すを相手を選ぶ、という条件付きの人選に困った故の事でもあるんだろうが。
 そうか、とだけ零辞さんが残念とも何ともつかない様な声を出して話は打ち切られた。
 本当に全く、どうでもいい。零辞さんの心中を察するのはやめる事にした。
 要は生活資金が得られればそれでいい。家になんだかよくわからない女子が居ようが、書類の内容に『1760年に於ける輪廻循環部の誤作動について』と書かれていようが。
 必要な所だけを道具として必要とする間柄。人っていうのは、それを取り巻く社会っていうのはそういう無機質な感じに見えて、しかし割と上手く機能しているからそれでいいと思う。
 やがて明日香さんに呼ばれると、オレと零辞さんは揃って伸びをしてからキッチンへ向かった。――あんたは、本当に、今日は何もしていないだろう。
 結局今日の午前中は、彼はこの部屋で何もせずに考え込んでいた。


 明日香さんが作ったやや狐色が過ぎた様なオムライスを口に運びながら、零辞さんが思い出したように、けれど何処かうさんくさい調子で言う。
「ああ、白君。今夜君んちに、お客さんが行くと思うから。俺の知り合いー」
 いー、でにこーっと髭面をほころばせる。行くと思う、という事は、もうその人がうちに来ることを止める事なんか出来ないんだろう。
「どんな人なんですか。というか、どうしてうちなんですか」
「んと、可愛い子かな」
 ――また増えるのか、それとも。
「きっつい性格で、目もつり気味なんだけど。あとは……多分、黒いワンピースのミニスカートとか、着てるんじゃないかな。夜に紛れる為に」
「――身体的な特徴、聞いてるんじゃないです。どういう立場の人で、なんの目的があってうちに来るんですか」
 質すオレが微妙ににらむと、零辞さんは「参ったな」と嘆いて額に手を当てて、けれど口では薄く笑っていた。
「率直に言おうか。その人が君の家を訪れたら、『問答無用で低調にお帰り願ってくれ』」
「――わかりました。リリスにそう、伝えておきます」
 そういうのはリリスの割り当てだ。
 実際、こういう事になった。いや、されたのは初めてだけれど、別段慌てる必要は無いと思う。
 あいつの力は本物だという事は、いつか身をもって知らされた。だから、この確信は過信や慢心じゃなくて只の事実だ。冷静になって否定出来る様な部分を挙げようとしてみても、一つも挙がらない。
 はたして、零辞さんの目が、スプーン越しに、す、と細くなった。
「リリスじゃ駄目なんだ」
 それは割と、オレに都合の悪い言葉だった。
「君がやってくれ。あいつはリリスと向き合った時に、どんなとんでもないリアクションを起こすか、わかったモノじゃない」
 いつしか零辞さんは真剣な顔つきで、
 オレは完全に冷めていた。オレと零辞さんの顔を見比べておろおろする明日香さんに、すまないと思った。
「……詮索はしませんけど。オレがやるのは嫌ですよ。仕事でも。というか、出来ないですし」
 零辞さんは今度は顔の前で手を組んで、まるで碇司令みたいなポーズを取って、何故か哂った。オレは明日香さんのオムライスが冷める事程淋しいものはないので、気にせずに一口いただく。
「さぁ。それは俺の知る範疇にないんだけどね。――ともかく、俺の言う事聞いておくといい事あるよ?」
 『聞かなくて酷い目に会っても』と言ったら席を立っている所だ。そこが、この人の憎めない所というか。
 実際、そうなるんだろう。零辞さんは、出来るかどうかもわからないような人間に頼んだりする様な人ではない。
「…これが、その、例の賊の話なんですか?」
 それを承諾の言葉と取ったのか、零辞さんは口の端だけで不敵に哂った。……どうにも、やりこめられら感があってうざい。
「――そうだよ。一昨昨日、手紙を出しておいたんだ。住所はわかっていたから、タレコミっぽくね。午前中唸っていた結果でもある」
 きぱっと宣言されて、俺はいよいよ嫌だと言っている場合ではなくなった。何も出来ないで考え込んでいる零辞さんを見たのは、あれが初めてだった。
「それで、どうすればいいんですか」

           ◆

 わたしがイギリスを出てからもう三年が経ったのかと考える事が出来たのは、今、目の前に広がる情景が非道く懐かしい色で彩られていたからだ。
 赤と緑のクリスマスカラー。雪こそ降っていないものの、ロータリーの中心に据えられた巨大なツリーには粉砂糖めいた白のスプレーが吹き付けてあって、雪に見える様に趣向が凝らしてあってそれらしい。装飾だけを取るのなら、日本とイギリスのそれは大差ないのだ。
 イギリスに限らず、クリスチャン達のクリスマスは日本人にとってのお正月に近い。浮つく、というよりは、幸せで忙しい。
 プレゼントを買わなくちゃ、クリスマスカードを送らなくちゃ、飾りも飾って、仲良しの家族のパーティへも―― 
 イエス・キリストの生誕の日。
 今からおよそ二千年も前に彼は生まれ、世界のほんとうのことを只独り知る身でありながら、自分の弟子に裏切られ、そして、ユダヤ人に磔刑に処されて死んでしまった。
 形の判らない何かを信じる力。ひとえに、その力強さと脇目の振らなさに人々は憧れ、彼に自分の夢や願いを重ねていったのだろう。神様なんかじゃなくて、キリストそのものという。只の一個の人間を崇拝する教えになった時点で人々は情けないが、簡易で合理的な道を歩もうとする事をわたしは糾弾出来ない。何故って、わたしもその中の一人だから。そうなり、そうあって魔術を学んで行こうと、一度は志した弱い人間に過ぎないんだから。
 結果ユダヤ人は、或る独裁者の手によって壮絶に数を減らした。キリストを信じた者達の呪いによって。あの世というものがあるのなら、それからすら干渉を受けて、千云百年をかけて式を編む事に成功した、これは十字架を信じる者達全員からの呪いだったのだろう。それも、きっとキリストの意向とは全く関係なく行われた事に違いない。彼は只の一個のヒトにして、確固たる聖人であるのだから。
 形の判らない、人間に観測する事が出来ないというだけで、必ずこの世界の何処かに在る力の源を信じる力。それが魔術を習得する上での絶対条件。 
 それが魔術を覚える為の源だとするのなら、魔力の源なんてものは人の心の中に存在するものなのかも知れない。――と、なりたての魔術師は必ず思う。
 ――必ず思って、そういった持論はいつしか消えていく。それは、魔術の教科書を読んで把握するだけで、知りたい『それ』の大まかな形を、先入観を認識させられてしまうからだ。勿論、魔術の教科書はそのような目的で造られていないが、皆、統計的に見て、どうしてか似たり寄ったりな解釈をしてしまうのだ。
 そういった先入観を信じず、確りと我が道を行った者だけがそれの実態を知る事が出来るというのは、皆が知っていて、しかしほとんどの人間が実行出来ない事実だ。――破戒していく勇気が無いのだ。……普通に『だけ』生活して行く上で学ぶ必要のある他の分野を、全てかなぐり捨ててから学んでこそ成り立つモノが魔術。そこまでの勇気を持ってしても足らない――いや、その程度の勇気でどうにかなる代物では、断じてない。
 魔術、という神秘に着目したまでは良かった。けれどそれを教え伝えしていくのはやはり人間で、それ以上もそれ以下も無いんだ。皆口には出さないけれどわかっていること。それでも魔術師には諦めの悪い頑固者が多いから、皆前か上しか見ていない。
 世の中っていうのは本当に侭成らないモノね、とわかったような台詞を呟いて、わたしはローラーの付属したトランクを転がすのをやめて、駅の券売機の前に据えられた支柱に身を預け、しばし周囲の雰囲気を感じ取ってみる。
 何故だか判らないけれど、男一人でデパートへ入っていく人(あれはどうみても子持ちだ)、
 わたしと同じ十代半ばくらいの女の子ばかりで、どこかやけ気味に騒いで連れ立っていく後姿、
 わたしと同じ様に、独りでツリーを見上げて眼を細めている誰か、
 妙な意匠のロングコートを着て、今自転車を停める場所を探している誰か。
 
 それはやっぱり、誰も信仰を持っていなくて偽者くさいのだけれど、
 この冷たい外気にして、心なしか笑顔である人が多いというのは、クリスマスの矛盾であり美点だと思うから。

            ◆

 往路。紅坂宵音は、木の根を避けてゆるりと歩を進める。
 寒気と排気という日常に晒され、けれどこの世界の日常の王たる人間が滅多に入って来れない、そこは処女の胎(はら)の中に似ていた。
 怒れる魔人の額のように、彼女の進む道は酷く禍々しくて、
 切り開かれた病人の臓腑のように、彼女の頭上は侵食されていて、
 彼女の現実(いま)の天地にあたるそれらに重なるイメージは、血管だった。
 実際それらは只の樹の根と、無数に分岐した枝に過ぎなかったが、此処では確実に、生有るモノとして生々しい感覚と感触を併せ持つ。
 ――物と生き物の違い。
 この場所はその境がどうしようもなく希薄で、けれど、いざ中に入ってみると、その異様は彼女にとってはどうでも良くなって来る。灯りの無い森の奥。その先の、見得ない最終目標を見つめる漆黒の瞳が、如何にも興薄げに、こういうものでしょと告げていた。
 彼女の世界の中の現実は、呆れる程に強固だった。
 あらゆる事物を見据えて、信頼する。これぞ魔術師としての完全な在り方。彼女がそう在ろうとして在る一つであり全てのカタチ。
 見据えて、信じて、看破する。そこに乗り越えるという過程は存在しない。抵抗など彼女にとっては零にさえ感じられた。
 彼女は月を見上げて一言、なんて禍々しい、とだけ、恍惚としたような微笑を浮かべて呟いた。
 彼女の纏う黒衣は、黒髪は。生暖かくて冷たい夜風を孕み吸血鬼のそれの様に翻る。闇に在って尚、その黒は黒として在り、彼女の蕩ける飴の様な殺気は、その周囲の生あるモノ達の動脈に絡み付いて道を拓かせる。
 創られた道は、妙な館へと続いていた。妙。彼女にとっての、妙。魔術師以外の者達にとっての、異様と恐怖。
 その館は全くふざけた造りだった。
 敷地の広さは小学校のグラウンドくらいあるだろうか。『たったそれだけの』広さの敷地を、まるで囲いをつくって庭に日の当たる面積を狭くするかの様に、四階建ての建物をコの字型に配置してある。あの森に入った時点で四方位の感覚は彼女から奪われていたが、東西南北に棟を一つづつ構えて、それを通路で繋いだ造りなのだろうなということは、彼女には大方予想ができていた。
 そうしなければ、この異様は発生し得ない。もしこの建物がそういう造りで無かったのなら、今頃、この樹木の種類すらわかりづらい妙な森林ごと連合に焼き払われるか、凡俗達の格好の暇潰しの対象と成っていただろう。
 此処は誰かが作為的に作った、人工の異形の空間だった。それに慣れ、あまつさえ居住する事が出来るのはそれを造り上げた術者自身か、それに完全に適応し、且つその状況を自身の利益にしようとしているどうしようもない化物だけだ。
「丁寧さだけが取り得なのね。――相変わらず」
 今度は明確な侮蔑を込めて言い捨て、彼女は館のアーチ型の門へ手をかける。少し力を入れて押すと、惰性も慣性も無いのに鉄格子は向こう側に観音開きに開いていく。 
 別段裏口から入っていく必要もない。これは罠なのだ。何処から入ろうが警戒の度合いは同じで、過程も結果も変わり得無い。――間違いなく此処は、敵地なのだから。
 敵地に在って、それでも常を保っていた彼女は眼を細める。笑ったのではない。いぶかしんだのだ。
 彼女の視線の先には、巨大な銀の十字架が、紅い月光を浴びて茫漠と煌いていた。……それに羽根――翼――、天使のそれとも、悪魔のそれともつかない、片方だけの翼が違和感無く生えていて、その所々は崩れて風化しかかっていた。
 十字架は鈍く、けれどどこか緊張感無く上方へ移動して一言、
「――やっぱり不味いな」
 と言い、右手のフィンガーレスグローブの先から覗く病人の様に白い指先で何かを投げ捨て、それをブーツのかかとで踏みつけ、勢い良く一度だけ踏みにじった。――どうも煙草を吸っていたらしい。辺りにはいつしか、苦い香草の匂いが漂っていた。
 背中に巨大な銀十字の刺繍の在る黒いローブを来た人間は、何も言わずに彼女――紅坂宵音に振り返る。
 細いのに、まるで弱さ儚さを感じさせないその輪郭、
 枯枝を思わせる長い体躯、
 雪の様に白い髪と肌、
 鮮血より紅い瞳。
 天使とも悪魔ともつかない、片翼の像の台座から腰を上げた人間は、そういう形質を表していた。――表面上は。
 
 ――辿りつきたい何処かから流れ込んで来る魔力の支流、その終着点。

 魔術師という意思を機関として見つめるならば、そういう分類と云って良い。
 その色や輪郭や匂い。何千何万のパターンを見つめてきた彼女の眼をして、その男の魔術師としての性質は曖昧だった。
 曖昧で、しかし彼女には、魔力の流れだけを取るのなら見えてはいた。見えてはいたが、その在りようが非道く曖昧なモノだったのである。
 ――あなたなに。宵音は問うた。
 その質問の対象はこう答えた。
 只の、いちフリーターに過ぎないよ、と。

 銀十字は闇を焔やし、
 白兎の様な容貌は、しかし畏怖を感じる事が出来ず。
 端陽空岐(たんようそらき)という現実だけが、彼女の前に佇んでいた。

 空岐は如何にもつまらなげに、姿勢悪く斜め立ちになってからゆっくりと口を開く。
「何しに来た。あんた」
 忌々しげに、じり、と、もう一度足の下の煙草を踏みにじる。その紅い眼は、無駄話を挟む気は無いぞ、と強烈な主張を表していた。
「此処に“紫黒の領”に通じるモノがあると聞いたから、奪いに来たの」
 彼にとっての訪問者は、悪びれずにそう答えた。
 “紫黒の領”――それは、全ての魔術師達が辿り付きたいユメか概念の、この国での呼び名である。
 魔力の源とされるそれは、魔術を使用する者――非魔術師か是魔術師であるかに関わらず――をして、紫と黒という共通のイメージ認識があるからそう名づけられている。
 知っているでしょ? と宵音は言葉を継ぐ。
「――輪廻の最果てに位置づけられているモノの事。決して見得ない癖にそれは必ず在って、何かに管理されてきちんと稼動しているモノの事。
 わたし達をカタチづくる原子が、宇宙を含めた物質世界だけを流転していると考えるから観測出来ない。動作や記号という『意思』を孕んで、輪廻は成り立ち得るモノなのよ」
 宵音は、まるで教科書に綴られている内容だけを拾って読むように、非道く簡潔に空岐に教え、そして問う。現在対峙している相手が何なのか自分の眼で確かめられない限り、仕草から来る真意から探ってやろうと考えたのだ。
 しかし彼は、
「理屈臭くて聞くに堪えないな。だからさっきも言っただろ、オレは只のフリーターだって。何か物事を考えて、その意味を理解しようとして理解しようとして理解しようとして、最後にもう一度意味がわからなくなるまで考え込む程、何に対しても熱意や意欲がもてないんだよ」
 わかるだろ? と空岐は言葉を継ぐ。
「――これだから魔術師は嫌いだ。手の届きもしない夢想をいつまでも追いかけて追いかけて、だ。一体そんな事して何の意味があるんだ。
 他人の価値観に干渉する趣味はないけど。不愉快だからこれだけ云うぜ。――ナルチシズムも大概にしろよ、お嬢さん」
 ほぅ、と宵音は溜息をつく。それは自己の思考に没頭しかかる前動作だったが、止めた。思考に入り始めるまでも無く、この人物が魔術師で無いと判断出来た。それならば何なのかと考えようとして、彼女は止めたのである。考えても考えの及ばない事については、彼女は完全に切り捨てる。元来合理的で、しかしどうしようもなく『正しい』性格なのだ。故に、『自分が夢想を追いかけているとは微塵も考えていない』。
 ――それだから、最早。
「――そうね。やっぱり、体験でもって調査するのが、一番いいわ」
 それは状況的に、否、空岐にとっての状況として実力行使の宣言であった。こうなることしか予測していなかった彼は、しかし自分の挑発に似た本音が別の方向に作用したので些か驚いていた。
 敵に冷静さを与えてしまっていた。戦闘ではなく、調査に於ける類の、冷静さを。
 彼女は本物の魔術師だった。

 ――開いたままの玄関。そこにある大時計が刻んだ拾弐という名の区切りが、
 片や、戦場という場を借りて、生きる為の仕事としての、
 片や、戦場という場を借りて、只知る為の調査としての、
 開始の合図となった。

 宵音は無言で、首飾りのチェーンを引きちぎる。
 空岐は黒猫の予備動作より短く力を溜め、切れる弓の弦の様な初速度で駆け出した。
 敵の魔術ショーを見てやる寛大さは空岐に無い。己の『訳の判らない力』をすら見たくも使いたくも無いと考える彼は、素の格闘戦、しかも只の一撃でカタを付ける気でいた。唯一『足が反則的に速い』という敵の情報を得ていた彼は、距離を取ろうとせずに突然道具を取り出した――あまつさえ、儀式的な道具であると看破される様な取り出し方をした――この少女を、馬鹿めと、しかしまるで油断なく獰猛に嘲笑った。
 距離にして10メートル。感情の昂ぶりに比例して冴える脳に、無意識下で強化を施される彼の足は、鈍重なローブとアサルトブーツを着用したままの本体をして、肉食動物の攻撃速度で駆ける。硬質な爪先が石畳を抉り、朽ちる寸前の蛍の様な眼は闇に紅い痕を残す。
 少女は首飾りの十字架を握り締めたまま、何もアクションを起さない。只、じっと、彼の、紅い眼を、己の黒い瞳で、じっと、見ている。見て、居るだけだった。
 空岐は構わず走り――、すれ違い様、まるで居合い抜きの様に、少女の首元に過不足無い、気絶させるだけの力を込めた手刀を叩きこもうとして、簡単に弾き飛ばされた。……手刀を繰り出した手が、ではなく、――体ごと。
 叫ぶ暇(いとま)もなく荒れ果てた石畳を転がって、最後の一転に載せて体制を立て直す。
 ――こうなる事はわかっていたものの。空岐がガードするべくしてガードした右腕は、巨大な鉄棒で殴打されたかの様に見事にひしゃげていた。そして視線を上げ、もう、この戦闘中に右腕を復元することは諦めよう、と空岐は只考える。
 彼の眼前にして宵音の右頭上には、巨大な、荒唐無稽な輪郭をした怪鳥が一話、紅い月を背に羽ばたく事無く滞空していたから。狙いはその脇腹にして、結果彼の右腕を強打したのは、その鳥の二メートルは下らない大きさのくちばしだった。――つつかれていたら、彼は死んでいた。
 統一色として、その全身は紫黒色に彩られている。揺らめく翼は、何か化学薬品を燃やした時に出る炎の様に不自然に、そして禍々しく光っていた。
「――参ったな。野鳩の公爵、ハルファスの眷属か」
 言葉程のうろたえも、怯えも見せずに空岐は言う。この怪鳥が、件の事件で彼女の逃走を補佐していたのは間違いなかった。リリスの読みは大方当たってたらしいな、と、彼は相手に聞こえないくらいの小声で呟く。
 元々拮抗状態というものが嫌いな彼は、こうして特攻する事で敵の手札を無理矢理に引きずり出す事に成功した。自分から動かなければ相手も動かず、足の速い相手だから距離も詰まらない。どうせ過程も結果も変わらないなら、時計の針を進めるだけ――。……それは単なる若者の自棄に似て代償も大きかったが、結果だけを取るのなら最良の戦術であった。
 巨鳥を、既に森の中に在る時に召喚し終えていた魔術師・宵音は、彼の問いにいいえと首を振る。
「――そんな――……。コレは、そんな既存のイメージから来るモノじゃないわ。呼び出すという行為は、呼び出すモノのイメージが既存のものであればある程、回数を呼ぶ事が出来なくなるもの。
 ――『そんなもの』にしか頼る事の出来ない、自分に滅入ってしまうから……!」
 昏く、呪うような響きを乗せた言下に巨鳥が翼を広げ、けれど大気を打つ事なく黒いローブを着た獲物を強襲する。
 おん、と空を裂く音を残し、巨鳥の翼が空岐の腹の前を通り過ぎる。髪一重でこの、翼による打撃をかわした彼は、相手に殺意が無い事を看破して少しばかり冷めていた。
 ――命の削り合いなんてものはさらさらごめんだが。フリーターの癖に、仕事に『少しの娯楽』と『安定した収入』を求める彼にとって、これは哀しいことだった。
 それでも、まあいいか、と割り切る。充実した仕事なんて、生きてる間に数える程しか与えられない。そういうものだ。
「――全く、思い通りにならないもんだ……!」
 憎悪か歓喜の唸りと共に、空岐はすれ違い様巨鳥の後頭部に、己の血で式力を施した渾身の左掌抵を叩き込んでいた。
 ひたと、掌が接地した刹那、接地面と掌に挟まれる様に十字型の紋章が輝き、壮絶な衝撃が沸き起こった。その威力に巨鳥の頭部がまるごと消滅し――、そのまま吹っ飛んだ本体は北棟の二階に叩きつけられた。ずん、と、建物全体が揺れ、窓硝子がすさまじい音をたてて一様に散る。
 その割れた硝子が月光を受けて紅く煌く中を、濛々と上がった噴煙を切り裂いて空岐は追う。このまま、先程は狙える位置に無かった心臓に、もう一撃見舞って仕舞いにしてやろう、と。
 しかし追撃者は見た。壁にめり込んで動けない筈の鳥が、【焔(も)えてしまえ】と吼えたのを。
 文字とも意識ともつかない、それは呆れるくらいの憎悪と攻撃の意思表示。炎よ出でよ、なんて流暢な言葉よりは遥かに実用的な、その鳥の真意であり手段だった。
 次の瞬間、空岐は紫黒色の炎に巻かれて地へ堕ちた。――否、まるで激流の様にうねる、巨鳥の前方の虚空に浮かび上がった紋章から溢れる炎に呑まれ、押し流されていた。
 再び石畳へ転がる空岐の元に、容赦ない炎の怒涛が覆いかぶさる。そしてそのまま、火付きの悪い何かを炙る様に焼いていく――。

 
 ――静寂が戻って。
 焦土と化した庭園の中心に横たわる空岐はぴくりとも動かない。
 空岐と自分の直線上に、頭部を復元した巨鳥を配置している宵音は、その黒焦げになったモノの奥を改めて観察する。
 やはり異質だった。彼は独り輪廻から外れ、独立している。
 魔術は己の『意思』という対価を、呪文や式――紋章や魔方陣に使用される、文字や記号というきまりごと――といったカタチに込めて送り、その代金として“紫黒の領”から魔力を受け取って使用する、というサイクルで成り立つ。意思と魔力の交換を含め、この世の輪廻は成り立っているのだ。ところがこの人間は彼女が見る限り、先の掌低での一撃、その反則的な威力が発現した時、その身体に魔力が流れ込んで来る様子をまるで見ることが出来なかった。
 宵音は頭を抱えた。こんな事例は見たことが無い。――『体内の魔力が、血液の流れに乗って循環しているなんて』。
 それは、この人間は“紫黒の領”へ意思を送る方法を知らずして、魔術を使用することが出来るということだ。
 今の戦闘によって魔力量の減少は見られるが……。
 宵音は鳥の影から、又尋ねた。
「あなた、魔術を習った事がある?」
「あるわけないだろ」
 屍が跳ね起き、終撃の突進。
 動かない右腕の肘より下が、ぶるんと振り回される。
 破れたズボンのポケットから、ライターと煙草が転がり落ちた。
 鳥は容赦なく式を構築し、見得ない何処から紫黒色の魔炎を呼び出す、
 ――より先に、空岐の放った黒のローブが宙を舞っていた。
 ローブは鳥の前方に飛んだ辺りで、呼び出されたばかりの焔――あまりの唐突さから、加減を効かせていない最大級の焔――を、その背に受け止め、あまつさえ反射していた。
 そして巨鳥に、一瞬にして着火した。
 自分という存在を自分の破壊衝動で燃やす、という自己矛盾に陥って苦しみ悶えている鳥の懐に空岐が飛び込んで、
「いくらでも出るんだろうが一応言っとく。ご愁傷様」
 心臓を、完全に、破壊した。
 今度は掌抵ではなく、まるで杭を打ち込んでやるかの様に中指から突き入れて、そのまま体ごと通り抜けた。
 その左腕は、けれどその鳥を呼び出した術者の喉元で停止した。背中で、何かが崩れ落ちて逝くような感覚を覚えながら、空岐は吐血してそのままうつ伏せに倒れこんだ。
 ――ローブに防がれていた熱はともかく。
 炎の圧力に長い事押しつぶされていた、臓腑が耐えられなかった。
 昏く遠のく意識の中で、自分の背に何か、暖かい毛布の様なモノをかけられる感覚をおぼえながら、空岐はゆっくりと眼を閉じた。

             ◆

 宵音はひといき、ついた。
 脳の芯が、蓋を開けられてしまったカメラのフィルムの様に焼きついている。
 今日睡眠を取るまでにあと何度術を行使出来るのかと考えてから、ローブをかけてやった青年を残して進むことにした。
 何処か頼りない足取りで開いたままの玄関へ入り、その前にそびえる豪奢な造りの、幅の広い階段の踊り場を見上げた。
 ――その先に居た。
 まるで三日月に腰掛ける妖精の様に、その格好からして或いはお転婆に、大きな球体の飾りのついた手すりに腰かけている。
 全身、真っ白でふわふわのレースのついた服を着ている。顎紐で留められた真っ白い帽子を被っていて、そのひさしは鳥のくちばしのように突き出ていた。まるで西洋人形か、ブルジョワ階級の貴族の令嬢といった感じの出で立ちのその少女の髪は、銀。瞳は猫の様に緑色に光っている。
 おとぎ話の中の住人のようなその少女は、ゆっくりと口をきいた。わたしの相手になることを光栄に思えよ、女、と。
 あなたもおんなのこじゃない、と返した、黒服の少女の語調には、しかし自信が無かった。
 宵音は、ぼんやりと一つのイメージを浮かべていた。
 一つのイメージ、それは、常に隣にあるもののこと。
 ――核というものがある。これは殺戮の道具で在りながらにして、その威力の凄まじさから互いを牽制し、抑制し合うという効果を得た為に、戦争というものを現代に無くし『それ』の実感を希薄にさせている。
 ――技術というものがある。これは無条件に素晴らしい力だが、好奇心の暴走という使い手の愚かさから時に乱用され、目先の効果だけを得ようとした結果『それ』の期限を引き延ばし、やはり実感を薄くしている。
 常に隣にあるっていうのに。
 生きている人間の大半は、これの存在を頭では理解しつつも、しかし実感を持っていない。偶然に出会って、初めて気付く世界の不条理さ。――いや、世界は初めから不条理に出来ているものだ。それを、生まれた時から実感させられていない方が愚かというべきか。
 思考が逸れた。それは逃避だ、と宵音は自分を正して、白い少女として現われた、今ある現実を見据える。
 今見ているものは死だ、と思う。今初めて、自分は実感出来ている。宵音は朦朧としながら、カタチとして現われるなんて、と呟いた。
 何が、こんなに自分を震えさせているか彼女は考えて、まるで理解出来なかった。それなら実践して試そうと考える頭は、けれど全く動かなかった。
 白い服の少女が笑う。
「わたしの家に勝手に上がりこんだんだ。死んでも文句は無いな? わたしは死んでから文句を言いに来る奴が一番嫌いなんだ。だってそうだろう? そうなるとわかっていた癖に……。まるで現実が受け止められないみたいに、今の自分ばかり正当化しようとするんだ。今そう在る自分だって、知らなかった昔の自分だって、自分だってことに何も変わりは無いっていうのにな。まるで、自分で自分を殺してるんだよ、奴等はさ!」
 そう言って、心から嘲笑う。
 魔術師である彼女はそれを信頼して、けれど抗ってみたくなった。
 信頼するというのは、受け入れるという事。
 抗うというのは、受け入れたそれを書き換えてしまう事。
 でもそれでいいの? と、臆病な自分が問うて来る。それから更に臆病な自分――が、何か叫んでいた。
 でも、そう叫んだのは今まで作り上げて来た自分なんかではなかった。ヒトという、原始のモノ。脳の芯にあたる部分から発せられた、本能という警告が、
 コノママジャ、シンジャウ――
 そう、告げていた。
 答えは非道く簡単なもの。
 考えて考えて考えてばかりいて、答えが見えなくなっていた。誰かの言葉を思い出した。
 次の瞬間、その、叫んでいる芯を押し込めて、自我を形成する脳の表面をフル稼働させた宵音は、お腹を抱えてくすくすと笑う少女の深淵を見つめた。
 その、見る、という行為のダイヤルを切り替え終わる前にそれは見えた。他人の例と比べる事もなくわかるそれは、強力にして無比。白い服の少女はわらっているだけなのに、『何の意思も表出させていないのに』その間も魔力の道筋が途絶える事なく“紫黒の領”と握手をする様に繋がり、循環している――。
「あなた――……」
 思わず言葉を漏らした宵音に、少女が可愛らしく小首をかしげる。
「ああ、なんだ? もう帰ると言っても、残念ながら許せないぞ」
「あなた――……」
 相手が強力であり、絶対に敵わないというのは、受け入れて、書き換えようとしている事実。――けれどその他に、彼女はどうしても見落とせない事実が一つあることに気付いた。
 世の中は全く不条理だった。
 この白い服の少女はここに、この館という結界の中にいるから、連合にその存在を気付かれる事なく追撃をかわせている。――でも。
 お姉ちゃんは? と誰にとも無く宵音は尋ねていた。答えは勿論、無い。もう一度尋ねる。お姉ちゃんはどうなるの? と。――やはり答えは返って来ない。少女が小首をかしげるだけ。
 こういうものでしょと言い聞かせても、もう止まらなかった。彼女が三年振りに流した涙の原因は、会いたい人との再会から来る喜びなどではなく、世の中の不条理さに耐え切れなくなっての、本当にどうしようもない憤り。凄まじく冷たくて熱い、涙だった。
 その嗚咽に白い服の少女はふりむき、馬鹿だなと言った。
「……お姉ちゃんを返してよ……!!!」
 地獄の底から響くような鬼哭と共に出でた鳥の色は、紫という遊びを含まぬ漆黒。そしてカタチは、烏の羽根を生やした美しい女性の姿。
 白い服に身を包んだ妖精は【朽ちろ】という声か文字で、それを文字通り掻き消し、霧散させた。
 ――意思の断片すら残さず、捻じ伏せられて。完全に消滅させられた。


 ――話を一日前、黒種家の昼食の時刻に引き戻す。

 それでどうすればいいんですか、と空岐は尋ねた。
 それに対し、無精髭の魔術師・零辞は、
「まずは君の家に行こう。リリスも交えて話がしたい」
 と答えた。空岐は何故か嫌そうな顔をしたが、零辞はそれに取り合わず、まずはとばかりに冷めたオムライスをさっさとかきこんでいった。

 空岐とリリスの館のキッチン兼居間に、まずは空岐が入り、零辞が入ろうとした時、彼はソファーの上に丸くなって眠っているリリスを見つけた。大きなソファの隅の方に小さくなっていて、長い、毛先がややカールした銀髪の後ろ頭とヘッドドレスのひだだけが見えている。空岐が眼で「これ起すんですか」、と尋ね、零辞は頷いた。
「リリスただいま」
 眠り姫はがば、と簡単に跳ね起きて、プレーリードッグの首使いで無言で空岐を探し当て、「おかえりな」まで言って凍りついた。
 嬉しそうに輝いた顔が一瞬にして暗転していた。まるで、別人のように。
「なにをしにきたんですか」
 そう、もう一人の人間――零辞に向かって言い、背の低い彼女は空岐のズボンの裾を掴んだ。わたしの空岐にさわらないで、という意思表示だと零辞は思った。それから努めて何気ない調子で、悪意の無い微笑を浮かべながら言う。
「まあ仕事かな。別に白君を取ったりしないから、安心しろよ」
 あまつさえ、髪を撫でながら。
 空岐が止めるより先に、一瞬顔を歪ませたリリスは零辞の脛に蹴りを入れた。
 零辞の体が少し揺らいで、それからややあって苦笑した。蹴りそのものはまるで子供の威力だったが、蹴られたという事実に、いつものコトだが、彼は、
「……はは、傷つくなぁ……」

 気まずい沈黙の中、三者はテーブルを囲んで、零辞が口火を切った。
「まず――、ここに来る相手が誰なのか、という話からしようか」
 それは一もなく二もなく聞いておきたい所だった。空岐は何も言わずに先を促そうとして、それからややはっとした顔になり、隣で、自分の体に張り付くように座っているリリスを振り返った。
 不機嫌というよりは、険悪な表情になっている。大きな瞳を細め、零辞をこれでもかという程睨みつけてから、
「……相手ってどういうことですか」
 と静かに言い放つ。
 ――怒りというものには度合いがある。こうして静かに前置きされてから始まるそれは、きっと最大級の破壊力を持つものだ。空岐は身構えずに、しかし緊張の糸を過不足無い強さで張って『まあ大丈夫だろ』と只思う。
 やや状況が張り詰めた中で、しかし零辞は、空岐が呆れる程の緊張感の無さでゆるりと笑った。煙草を取り出して火をつける。
「今日中に女の子が一人この家を訪れる。それでそいつは、君らのいわゆる敵だ。俺が呼び寄せた」
「……何のためにですか」
「それをこれから話すんだよ」
 やりこめられたようにリリスは黙ってしまった。彼女は普段ぼけぼけした感じでいるが、頭がはっきりさせられる事態(例えば今のように真剣に話し合うべきとき)になった時、彼女は決して取り乱さない。私情を挟むこともなければ、相手に敵わないと思った時力任せにヒステリーに陥る事もない。外見は全くの子供だったが、彼女は大人の様に言動に筋を通す事にひどく慣れていた。
 二人の様子を推し量って微笑し、零辞は一番重要な部分を後回しには説明しなかった。煙を吐きつつ、言い放った。
「今夜来るのは、実は俺の妹でね」
 空岐は無言で驚きを表し、リリスはむすくれたように表情を変えなかった。零辞は言葉を継ぐ。
「――イギリスで連合を抜けて別れてから、もう三年会ってないか。音信不通ってやつだ。あいつと俺の付属学校を抜けた理由は一緒だったが、あいつはまだ子供だった。現実が受け入れられなかったんだな。若くして実力も才能もあったから、俺なんかと違って、連合の支援さえあれば一生食っていけたんだろうが、そうしなかった。――相当に、連合の体制を憎んで出て行ったよ」
 苦い顔になり、零辞は吸い始めたばかりのタバコを持参した携帯用の灰皿に押し付けて消した。窓の外の暗闇の奥、見得ない目的と迷走した人生の始点を黒い瞳で見つめる。
 空岐にとってそんな話は勿論初耳だった。魔術学校の学生時代に連合と何か確執があって、というところまでは知っていた。けれどその結果が中退で、しかも一緒の学校に通っていた妹が居て、その子も一緒の理由でやめたというのだ。相当な兄貴想いなのかどうかは彼の知り得る所では無いが、相当深い訳があるに違い無かった。
「――それで。辞めた理由っていうのは何だったんですか」
 あなたの身の上話を聞いているんじゃありません、と緑の瞳が冷たく告げる。リリスだった。
 零辞は苦笑して、
「身内を殺されたからさ」
「――何故?」
 問うたのは又もリリス。その顔に浮かぶのは、微量の不安と曖昧な確信だった。空岐はそれを読み取ってしかし、何をすることも出来ないので何も言わない。只、彼女のこの焦り様は何なのかと少しいぶかしみ、身内を殺された、という零辞の過去を知っても、大した驚きを見せなかった。
 リリスは自分でも理解出来ない程焦っていた。至極勘のいい彼女は、その殺された彼の身内がどんな存在であったのかわかりかけていたから。
 はたして、零辞はその顔に何の感情も浮かべずに、遠くを見つめて二人に言った。“クライン”という存在があってね、と。
「“クライン”?」
 空岐だけ、口に出した。黙ったままのリリスには構わず、零辞はうなずく。
「19世紀の数学者が発見した『クラインの壺』というものがあってね」
 そこで零辞は空岐に紙とペンを求め、空岐は速やかにそれらを持ってきた。リリスは固い表情のまま、机の一点を見つめている。
 この理論をわかる必要はないけど実感として、と前置きして、零辞は空岐がどこからか持って来た、ビニール包装がされたままのルーズリーフの束から一枚取り出して、何やら描こうとして――、思い直して、その用紙自体をいじり始めた。
 物理的にかなり無理があるんだけど、と更に前おきして、まず紙の一組の対辺の端から端まで、同じ向きの矢印を二本平行に書く。それからルーズリーフをくるりと丸め、円筒形のものを作りセロテープで留め、さらにその出口と出口を繋ぎ合わせドーナツ型のものを作った。――勿論無理矢理に曲げられた為、そのドーナツの形はいびつだ。
 そこで零辞は何を思ったか、自分の指先の肌を少し噛み千切り、そこから流れる血で紙に記号をさらさらと書きつけていった。そして一言、【動け】。
 命じられた紙を構成する分子達は、零辞の描いた記号通りに移動した。紙が軽くめきめきと音をたてて、中が空洞の綺麗なドーナツ型に変形していく。その挙動が終わった頃に血で書かれた記号は消え、すかさず零辞はセロテープで貼り付けて形を固定してやった。
「これで、ドーナツみたいなモノが出来たよね」
「魔術ってそんなことまで出来るんですか」
 話のかみ合わない質問を空岐がして、零辞が「このくらいの分子量ならギリギリ……か。でもそれは、今はどうでもいいことだな」と簡単に却下する。
 そして、ドーナツの繋ぎ目、さっき円筒状の形になった時の出口部分が繋がった所を指差して、
「――ここの内側、今どうなってるかわかる?」
「矢印が、同じ向きを向いてくっついてます」
 空岐がドーナツの製作過程を辿る間も半瞬、リリスが即答していた。確かに、まだそのドーナツがルーズリーフであった頃、何やら矢印をひいていた気がする、と空岐は遅れて、しかもぼんやりとしか思い出せない。
「そうだね。ここの繋ぎ目は、俺が矢印をひいたルーズリーフの対辺って事になる。じゃあさ、その矢印が違う向きを向くように筒の口と口をくっつけるにはどうしたらいいと思う?」
 リリスは頭の中で図形をこねくりまわし、空岐は束からルーズリーフを一枚取っていじっていった。
 そして同時に、
「「そんなの無理です」」
 と揃って些か不満そうな顔をして抗議した。
 確かに無理なのだった。どう捻ったり回したりしてみても、矢印は必ず同じ方向を向いてしまう。
 零辞はにこりと微笑して、
「だからね。こうしてやるんだよ」
 とまた、血で何か描いていく。【動け】と命令してドーナツが変形し、出来た姿を見、二人は思わず「あ」と声を上げていた。
 それは取っ手の在る壺の様な形をしていた。
 正確に言えば、円筒の片一方の口が自分の体に潜り込んで、反対側の口と『中で繋がっていた』。それゆえに口の中が見えるようになる。ので見てみれば、確かに矢印は違う方向を向いて、しかも平行になっていた。
「なるほど、でも」
 空岐が抗議した。「そんな繋げ方、絶対思いつかないじゃないですか」。 
「そこが問題なんだよ」
 傷口もそのままの指で、零辞はもう一度煙草を取り出した。煙草を加えたまま、壺の形になったものの断面が見えるように、今度はまるでマジックのように縦に両断して見せた。
 丁度、二重の涙形に見える壺の断面。零辞はその表面を指でなぞり始め、二人はそれを目で追った。
 するとその指は、表側をなぞっていたはずなのに、いつしか壺の内側に達していた。表と裏の境が、そういった構造に作り変える事でわからなくなっていたのだ。
 零辞は最初に始まった所に辿りつこうとして、ずっとその壺を、今度はペンで辿っていった。
 ――軌跡はつくれているっていうのに。始点に辿り付いた事に何処か、『自信が持てない』感じがする。どこまで行っても帰れない。逆に、どこまでも行けそうな感じが、空岐にはした。そして、思わずつぶやいていた。
「……ループ」
 零辞は窓の外を、煙草を吸いながら見たまま、
「ああそうだ。メビウスの輪が、これの簡単な例としてあるがね。……リリスは実感していると思うが、白君にはずっと前に話したな? この世輪廻の果てに必ず在って、けれど見得ない“紫黒の領”と意思の関係の話は」
 空岐ははい、と答える。そしてそれはいつだったか、と考えようとして、何故かやめた。
「さっき白君は絶対に思いつかないって言ったが。それは、絶対に在りえないと思い込んでいるに過ぎないんだよ。現実、こうして眼の前にカタチとして現われている。だから俺がさっき『問題だ』って言ったのは、絶対に在りえない事そのものじゃなくて、君が、在りえない、と考えた思考の事だ。
 少し話が逸れたけどね。魔術師の種別というものにも、このパターンが当てはまるんだ」
「……在りえないと思い込まないといけないような種類の、魔術師が居るって事ですか?」
「それもそうだが。俺が説明したいのは、白君が後に云った『ループ』の方だ」
 そこで、零辞は厳しい表情のまま固まっているリリスを眼だけで見やり、空岐が感得出来るかどうかというごく短い間の後、こう後を続けた。
「―― モノには、必ず終わりが来る。ヒトの命にしろ、世界にしろね。いつか、全部、消えてなくなる。単純に言うなら物事の致死率は100パーセントだ。只一つ例外があるとすれば、それはやはり『意思』なんだよ。俺はあの世とか、魂っていうものを信じている。何故かっていうと、それが無いと何も説明がつかないからだ。つじまが合うなら俺は神様だって信じるが、今はそんなことはどうでもいいか。俺が話したいのはね、ヒトの肉体と意思が完全に結合出来ていて、永久に魔力を衰える事なく取り込んで生きていける人間の話だ。
 ……いいかい。『意思』というモノは永遠に存在する。『意思』のよりしろである『魂』を完全に受け入れて、二度と逃す事の無い器である肉体があるとする。それは、魔力の永遠循環の中に身を置いて、肉体を破壊されない限りそうあり続けるって事なんだ。
 時々、不老の体を持つ人間の事を魔女と呼ぶヒトがいるが――それは、順序が逆でね。魔力を大量に行使出来るから若いんじゃなくて、不老の体だから魔力を永遠に行使することが出来る。終(つい)える事のない意思を、永遠に逃さない肉体。それこそが今説明した魔力の永遠循環、消えない意思から来るループの事。意思を式や呪文に込めて送る事をせずとも、最初から“紫黒の領”と通じている人間が“クライン”と呼ばれている理由なんだ」
 空岐は黙る事しか出来なかった。
 ――……凄まじい長広舌と。それ以上に、知らされた存在と事実の大きさに。
 魔術というものは、見たことがあるから知っているつもりだった。限られた範囲の中で物事を操って、大半は破壊的な目的の為に、少数は建設的な目的の為に使われる神秘の力。それがどうだ。『限りがある事が現実だ』と思っていたら、無限のタンクを持つ輩が、自分と同じ空の下にいるというのである。
「はぁ……、そりゃ、凄いですね。そんな奴はもうこの世になんて興味無いんじゃないですか」
 空岐は己の世界観をかなり破壊されながらも、あっけらかんと言った。そういうものだろう、と思う。そう信じる事の出来る根拠は、『零辞さんが嘘をつく必要性がないから』であった。強靭にして無駄に破戒的なイージースタンス。しかし、間違ってはいない。
 零辞は一瞬虚を突かれて、リリスも眼を丸くしている。
「――どうしてそう思うんですか?」
 と尋ねたのは、リリス。まるで自分の思考を読み取られたかのように、あからさまに狼狽している。空岐はそんなリリスの様子に気付かず、つまらなげに言い放った。
「“クライン”はあくまで魔術師なんだろ。だったら、皆が皆上ばっか目指すナルの筈だ。絶対に征服出来る世界になんて、興味は起さないだろ。だからオレらは安全。それだけだよ」
 零辞は今度こそ本当に黙った。半ば呆れたように、口をぽかんと開ける。リリスは何故か、何も言わずに空岐に体をくっつけた。
 ややあって、零辞が一瞬心からの笑みを見せ、それから悲しげな口調で言った。
「連合の人間が、皆君みたいだったら良かったのにな」
「…………。身内さんて、“クライン”だったんですね」
 空岐が視線を外しながらぽつりと言うと、零辞は頷いた。
 空岐には大方予想がついていた。リリスを交えて話す事に何の意味があるのかという事は、未だによく判らないが……。
「――そうだ。俺のもう一人の妹、今日此処に来る宵音っていうのの二歳上のね。連合の人間は、皆俺と同じに凡人ばかりだった。同じ道を目指す者の癖に、最後まで仲間を信頼出来なかったんだな。――最も俺の殺された妹は、魔術学校に入る前に何処かに幽閉されてしまっていたがね」
 ヒトを信じる信じないなんてそいつらの勝手だろう、と空岐は思った。けれど、場を荒立てても仕方ないので何も言わない。
 零辞さんのもう一人の妹さんを信じられなかった馬鹿達の気持ちは、理屈としては理解出来る、と空岐は思った。まず、そんな脅威をこの世に残しておく事こそ愚策、と世界平和を担う偽善者たるお上なら考えるだろう。だから殺した。反乱の可能性のある異分子は先行して摘んでおくのが常套策だ、と。
 でもまあ、いいか。自分と関係がない。
 彼にとって『どうでもいいこと』のゴミ箱へそれらの思考を投げ捨てて、空岐は話しを進める上で肝心な事を問う
「――それで。今日来る零辞さんの妹さんは何しに来るんですか? 思うにその人絶対馬鹿じゃないから何か目的が在る筈だ。だから、古い道具、“紫黒の領”『とやら』に関係するモノを蒐集してる、それでどうしようっていうんですか」
 魔術が嫌いな空岐は頑なに『とやら』を付ける。零辞は苦笑して、
「そうだね。古い道具は此処に沢山ある。――古い道具っていうのは、その積み重ねた時間だけで魔術に対抗し得る威力になるからね。……作られたモノが、出来た時そのままの形の時に限るが。
 此処はそんな道具でひしめき合っているから、俺は妹に手紙を出した。罠だな。でもあいつは絶対来るだろうから、心配しなくていい」
「どうして絶対だなんて、言い切れるんですか」
 リリスが問う。零辞は苦く笑った。
「意地だな。それから大前提として、『可能性があるから』だ」
「なんの、可能性ですか」
 零辞は一瞬の思考の後、
「時空を越えて、“紫黒の領”そのものに到着出来る可能性」
 空岐は、馬鹿にしたような笑みも作りかけに硬直した。
 リリスは、驚くような演技も出来ずに黙っている。
 零辞は構わずに続けた。
「省略、だな。転移とかワープと言ってもいい。でも、きっと距離を省略するんじゃないだろう。何を省略するのかと聞かれれば、只の魔術師の俺にはわからない。只、逸話として、“紫黒の領”に自分の身を辿りつかせてくれるモノが、在りえない事も無い、ということだ。理論上は可能で、けれど論証する為の物的証拠が何も無いんだ」
 待てよ、と空岐は苛立った。
「そんなの今までの話と何の関係があるんですか。仮にそんな馬鹿げたモノがあるとして、妹さんはそれを使って何をしようっていうんですか。魔術として無への境地をマジで体感してみたかったからですか?」
 半分馬鹿にした空岐の言葉に、零辞は「ああそれもあるのかもしれない」と真顔で言い、しかし、
「けれど、多分違う。あいつは“紫黒の領”に封じられた姉を助け出そうとしてる。――連合はその肉体を壊すのは惜しいと言って、“クライン”っていう天才体質が生まれる先から“紫黒の領”に封じる事に――」
「もう、いいです。良くわかりました」
 みなまで言わせず、リリスは手で顔を覆った。泣いているのではなく、本当に、世の中に絶望してしまったかのように。
 空岐は、何も言わずにリリスを抱き寄せてから、もう一つだけ、敢えて、どうして妹さんを追い返してほしいのかは詮索しませんけど、と前置きして、
「どうしてリリスにも話す必要が? 例え妹さんがウチに来るんであっても、それはオレと零辞さんとで勝手に追い返せばいいだけだ。それに、妹さんがリリスを見たら取り乱すみたいな事言ってましたけど、それも……全然、わかりません」
 零辞は、俺が話すことじゃない、とだけ言って、無責任にも、けれどその態度にはまるで後ろ暗い所無く、又煙草を取り出して火をつけた。
 は?、と漏らした空岐は独り、蚊帳の外の人間のようだった。
 空岐はわかっていなかった。
 何故零辞が、答える事を放棄したのか。 
 この沈黙が、何を意味するのか。
 胸にすがって泣く、この少女が何なのか。
 考える必要が無いと思っていた。
 けれど、時には、当たり前のことをつきつめて見、考えるという好奇心くらい持つべきだったのである。
 ――いや或いは、知らない方が幸せなのか。
 世の中というものは福袋に似る。
 大抵の場合、『確実に楽しい』のは開けるまで。
 開けた後、がっかりすることの方が残念ながら遥かに多い。
 それならば、開けるまでの過程を十分に楽しんでおけば良かったのだ。

 沈黙は、ちいさな声によって破られた。何かつぶやいているが、聞こえない。すがりついているリリスの手に少し力がこもったので、声の主がリリスだとわかる。
 やがて上着が生暖かくなって来て、それが涙によるものだと気付き、リリスの顔を覗きこもうとすると、彼女は顔を上げた。
 眼に涙をたくさん貯めて、こう言った。

「わたしが、“クライン”だからです」

 と。
 冗談だろ、なんて言葉は出ない。こいつはそういう凶悪なを嘘をつく奴じゃないんだ。
 けれど、だからこそ。それは変えられない、抗いようの無い事実へと変貌を遂げている。最高の敵だった。何しろ、無敵なのだから。
 そうかそういうことなのか。空岐は思った。こいつはクラインの癖に、連合に封じられずにこの世の生きている。零辞さんのもう一人の妹は連合に捕まって封じられた。それを見た零辞さんの妹は黙ってはいない、きっと取り乱すだろう――、と。
 頭だけが冴えたまま、まるで解きなれた数式を導くように全てを察していく。
 空岐はそうなのか、とだけ、事実を受け止めたふりをして答え、けれどリリスに何も声をかけてやる事も出来ずに部屋を見回した。無意識に逃避していた。
 そこには、この腕の中で泣いている少女と過ごしているなんてことのない日常が転がっている。
 さっき確かに自分は、『“クライン”には害なんて無い』みたいな事を言った筈だ。理由は忘れたが。
 キッチンにあるフライパンの残骸を見る。
 箪笥の上に山と積まれたぬいぐるみを見る。
 クロゼットの取っ手にかけてある、彼女のお気に入りらしい可愛らしい洋服を見る。
 つば広の、昔の欧米の貴婦人が被るような真っ白い帽子を見る。
 空岐の陣地にいつの間にか持ち込まれていた、沢山の古ぼけた書物を見、
 最後に彼女のプレゼントの、あの十字架コートを見た。
 害が無いのは確かだった。
 それどころか可愛らしくすらあって、しかも自分に好意を持って接してくれている。
 それは変えようも無い、実感から来る認識だった。
 けれど、
 不老。
 この少女は、老いる事が無いのだという。
 人並みに、背筋がうすら寒くなってしまった。この子は、自分が死んでからもこのままの姿なのだと言う。
 
 日常ってなんなんだろう、と空岐は呆と考えた。いや、思考が混濁して、もう一度逃避していたのかもしれない。
 日常。それは自分の信じていた、ものさしに似ていると空岐は思う。……意外と簡単に突き崩されるものだ、『ふつうのものさし』。その目盛りを何度書き換えればいいんだろうか。彼は今までにも一度壊されたことがあって、けれどその変化に、まるで慣れる事が出来てない。変化した後は、いい。変化した世界に慣れるまでが、どうしようもなく辛いのだ。それこそ心に害を及ぼす程。
 でも、
 昔のそれを壊したのも、この少女だった筈だ。
 そこに怨みなんてものはまるで無い。むしろあんな状況からひきずり出してくれて、今では感謝さえしている。只、状況についていけていないだけ。乗り越えればどうということは無いし、普通に生活もして行けるし、何よりも、
 リリスという、家族と一緒に暮らしていける。

 空岐は、ああ、なんだそうか、と呟いて、
 ――それが、破られた現実の残骸を乗り越えた時の見返りならば。
 やってやるよ、と空岐らしくもなく、熱い台詞を、心の中で、心の底から吐いていた。
 そんな残骸如きがオレの行く手を阻めるものか、ブチ壊してやるよ、と、無駄にサディスティックな気持ちになってくる。
 まさに今、彼は、追い詰められて、しかし状況を嘲笑っていた。
 状況を確認しようか、と尖兵の様に頭を冷やしながらも、笑っていた。肩の揺れが止まらない空岐の様子を見て、零辞とリリスが気味悪げに彼を凝視する。
 …………。
 自分はこの少女に二度も現実を壊されているらしい、と空岐は気付く。
 振り回されっぱなしだな、と彼は笑った。心から笑えていた。
 
「――ああ、それなら何度でも壊されてやるよ。現実なんて本当は、オレには初めからどうでもいいんだ」

 欲しいモノさえ、リリスさえいれば、それで。
 リリスは何を言われたのかわからずきょとんとし、零辞は快く笑う。
「それじゃ、『丁重にお帰り願う』方法を説明しようか」

           ◆

 ――時刻を戻す。
 白服の少女は、踊り場の向かいの窓の外を見ている。


 玄関が開け放たれたままになっていて肌寒い。私は今日は月が出ていないのだな、と思っていた。
 雪が降るかもしれない。
 私は溜息をついて、
「無理も無いな」
 そう呟き、黒い服の女を見下した。こと切れたように動かない。
 実際に死んだ筈はないが、あれだけの魔力の大放出だ。メンタルもフィジカルも、こんなか細い女ではまず擦りきらしてしまったのだろう。
 ――いや、こんなか細い女の割によく頑張ったと賞賛すべきなのだろうか。特異な体質である私には生涯その基準がわかる事は無いだろうが、ともかく、この女が常軌を逸した気の張り方をしていた事はなんとなく伺えた。
 まず、この黒種零辞という人間が作り上げた結界に入り込めた時点で常識から“は”外れた存在なのだろう。陣の内に入ることが許されているのは私とあの男だけだ。なのにこの女は、他の者は『気付かない』、『嫌悪感を催す』といった効果で近寄らせない筈、加えて連合の人間にすら気付かれていない筈のこの場所に悠々と侵入し、あまつさえ陣内での召喚という荒業までやってのけている。
「凡俗乍(ながら)に頑張った方か…」
 ――スカートがめくれないようにしぼりながら、踊り場の手すりから降りる。真っ白な衣服が汚れないようにある筈の無い埃を払う。
 この格好はどうも、何をするにも不便だった。私自身の趣味らしいので文句の言いようが無いが、私という意識の何処かにこんな嗜好があったのかと思うと、毎度の事乍至極不思議な感じがする。
 階段を下り、朽ちた花の様に倒れている女の側に私はしゃがんで、その前髪を除け、貌を覗き込んでみる。
 女は美しかった。
 年の頃からして、普通に成長しているのなら十代の後半といった所だろうか。肌は色白だが病的な感じはせず、柔らかく閉じられた目は切れ長で鼻筋が通っており、総じて白いリンドウの花を思わせた。アジア系ではなく、毛髪が漆黒だが欧米系なのかもしれない。
 髪は長く、頭の高い位置に二つ結わえ、スカートと繋ぎになった薄手のキャミソールの上から黒いロングコートを羽織っている。
 色は何れも黒である。
 疼いた。
 ――性という概念が私の中で希薄化して久しいが、
 その女の体躯と容貌とが、酷く官能的なモノに思えてしまった。
 身体の何処か、認知出来ない箇所が熱くなりかけていた。
「……美味し、そぅ…?」
 人差し指の腹をゆっくりと舐める。
 熱い思考が激流の様に押し寄せて、それにつれて体が自ら動いている。これが本能というもの、という字面が半瞬、思考の流れの中にノイズのように去来する。
 ――この戦闘の得るべき結果として、この女の無事というモノがあるらしい。
 ――強靭な精神を持った人間は、どういじっても美味しい。
 悩む間も無く少女の体を仰向けにさせ、その白い喉元を無理に開かせる。白い下着の紐が見えた。
 禁忌、という単語が頭を過って、
「――――……」
 彼女の襟元から手を離して、私は刹那の夢を終わらせた。女を捨てる様に横たえ、必要以上の距離を取って素早く離れ、手で自分の喉を抑えた。
 息遣いが無様なくらいに荒くて、口の中がすごく湿っていた。
 私は、醜い獣なのではないかと思う。
 どうしようもなく醜悪だった。――いっそ多重人格障害とやらなら、いいのに。けれど私は私そのものなら、私そのままだった。私として認識出来る私が今、この女を捕食する寸前の所まで狂っていたのだ。
 吐き気がした。
 狂っていることに、ではなく、折角手に入りつつある家族という名の平穏と状況を、自ら壊そうとしたこの愚かさに。
 ――なんだこれは。
 私は今錯乱している。その事が観測出来て、思考の順序が更に乱雑に成る。自滅的だった。――ようやく呼吸が整って脳内の整理がついた時、私は唇を噛んだ。私の血の匂いがする。
 平穏て、何。
 以前の私ならそんなものは必要無かった。周囲の環境が平和じゃなくたって、自分の手でそんな小さな危険は握り潰して来たのに。
 平穏て、何。
 あいつは私にとっての、何。
 今更乍、私は無様にもその自問に対する答えが見つけられずに居た。
 きっと、何時までも見つからないその答え。
 ふぅ……、と息をついて冷却する。
 ――やめよう。
 自分の息遣いの音が遠のくと、私の周りに残ったのは静寂だけだった。その静寂を短いのか長いのか……異様な間、貪る。
 すごくすごく女々しい考えだが、静寂だけは私に優しい気がする。何も与えてくれない代わりに、少しも暖かく無い代わりに、その空虚で無為な部分に一瞬だけ甘えることが出来るから。
 もう一度、今度は短く息を吐く。脈も、それで静かに止まるように感じる。
「――は…」
 苦笑とも何ともつかない、口の隙間から空気が漏れ出る。それは小さな隙だったと思うけれど、生憎と“敵”なんて存在は、今此処に居る筈が無かった。
 護られているのだと実感する。それからややあって、本当の苦笑が漏れた。
 こんなに気持ちを高ぶらせたのは久しぶりだったから、少しだけ焦ってしまったようだ。
「――少しだけ、楽しかったけどな」
 不敵に口の端だけで笑っているであろう私は立ち上がり、さばさばと女の衣服の乱れを直し、とりあえず館の中に入れてやっている義理も無いので外に引きずり出してやる。ずるずると両手を持ってひっぱり、石畳という無骨極まりないベッドに寝ている先客の横に、肩から先だけをうち捨てるようにして置いた。
 その先客の右腕は完全に折れていた。
「後は事後処理だけ、か」
 此処から出ることの出来ない私には、ここから先の問題なんて事は知らない。
 あの魔術師が来るまで一応見張れと、今其処に寝ている男に言われたからそうするが、やる事が無くて時間を持て余した。だからと言って眠くも無い。首を伸ばして玄関の大時計を見ると、針はもう二時の十五分前を指していた。
 ぼんやりと、並んで寝かせた客と、もう一人の貌を見る。
 お互い黒いコートとローブをそれぞれ纏う。黒い服は魔術師の戦装束だから、二人の格好はやはり何処か普通ではないと思う。――私が言えた義理ではないとも思うが。
 向かい合って、傍目には幸せそうに眠るのを見て、私は二人がまるで姉弟のようだなんてくだらない事を思っていた。二人は同い年か、腕の折れた男の方が一つか二つは年上に見えるのだが、黒服の女の方が目上に見える事には不可解な自信を持てた。
 ――そこで、もし、と。
 この二人が本当に姉弟で、この女だってこの家に住んでいたら、と思う。
 私は二人の間で手を繋いで歩いたり、
 男の方が私に決して教えようとしない料理を教わったり、
 夜になれば、二人の間で眠る事だって出来るのではないか。
 それはきっと、幸せな事なのではないのか――
 上を見上げた。黒すぎる空は、私の視界を縁取るこの館の建物が無ければ遠近感も感じられずに吸い込まれそうで、月はやはり出ていない。此処にあるもので私が唯一好きな、あの紅い月が見えない。
 階段に、膝を抱えて座り込む。
 甘い夢想だ。
 ――何年生きて来たかなんて忘れたけれど、私はやはり、私自身が見た目通りの子供なのだとしか思えない。それが怖い。自分と何歳の差があるかもわからない餓鬼であるこの男を、ただの一年の付き合いで、兄か彼氏の様に認識し始めている私が怖い。
 出会って数瞬も経っていないこの女を、捕食しようとした私が怖い。
 ――いや。
 もう、とうに、自分が子供だなんてことは、わかっていた筈だった。わかっているのに、またどうしてこんなに畏れているんだろう。
 一年前、自ら、自分に証明してみせたではないか。
 端陽空岐という人物の人間性を奪い、取り入れ、代わりに私と暮らす為の力を与えた時に――

 少しでも寒さをしのぐ為に、両膝の中に頭を入れた。こんな体勢ではズロースが丸見えになっている事だろうが、見ている人間も、動物すらも、此処には何も居ないのだ。
「――淋しぃ、の?」
 自問して、
「そりゃあ、淋しいだろうね」
 それは他人に答えられた。
 私が真っ赤になってスカートをおさえつけると、その人間は、はっはと軽く笑って、ズロースなんてズボンの内さと言った。――見たくせに。
 私のじとりとした殺意のこもった視線の先にいるのは、事後処理の為に現われた魔術師だった。手はずとしてはこの後、倒れている男の腕を復元、気絶している女を自宅に連れて帰る手はずになっていたはずだった。
「やーやー、手間を取らせたね。……いや、睡眠時間を削ってしまって悪かったと言うべきかな」
「――なんでもいい。早くそいつとそいつを連れて行け」
 その忌まわしい魔術師は無精髭の面を苦笑させて、はいはい、と言って二人を軽々と小脇に抱え、去ろうとし、思い出したように振り返った。
「――そうだ、一応訊くが。君は大丈夫かい? 怪我は」
「……自分の妹だからといってかいかぶりすぎだろう。かすり傷一つ無い」
「そうか。なら良かった。いや、本当に手間をかけてしまって申し訳ないな」
 そして、左脇に抱えた男の方の右腕を見て、
「――特に白君にはね」
 と言った。
 先にあの男を当てて、もし無理ならば私が迎え撃つ、という策にしたことを、この魔術師は悔いているようだった。
「何故、お前が手を下さなかったんだ」
 魔術師は一瞬、きょとんとして、
「そりゃあ…、負けるとわかっている相手に挑んで負けても、何の反省もないだろう?」
 それから、「ま、現実を見せてやりたかったのかな」と訳のわからないことを言った。彼にそう言わしめる経緯や理由はわからなかったが、言葉面の意味に納得は出来た。無謀と挑戦は違うもの。私は勝手に、前者は餓鬼か追い詰められた者のすることで、後者は勇気のある者がする事なのだと解釈した。
 そしてその女には、餓鬼や追い詰められた者のようにはなってほしくない、ということなのだろう。
 魔術師はじゃ、と言って去っていく。
「あ――」
 その後ろ姿を見、私は放っておけばいいのに、その背中に何事か声をかけてやらなくてはならないと思っていて、けれど口から言葉が出ないでいた。何かを言っておかないと気が済まない――不分明な気持ちを、
「あ、あのな――あの、あ」
「?」
 魔術師がぶつぶつ言う私に気付いて振り返った時に、
「…いつも。すまない、な」
 ぼそりと言っていた。
「――何が?」
 私は赤面し乍も、この善人のとぼけた顔に火を放ってやりたいと、その時思っていた。――全て言わせるんじゃない、と心の中で罵倒する。
「だから、…この結界の中にかくまってくれていることが、だ」
 ああ、と両腕が塞がっていて手こそ打てなかったが、その魔術師の顔に急速に理解の色が広がって、ひらひらと手を振った。
「あーあー、いいんだそんなの。俺の自己満足だから。君が出て行きたいんならいつでも言ってくれよ」
 この男の心理こそ理解し難いと思った。善人なのかと思えば、他人を突き放す様な部分も持っている。
 もういい、はやくいってしまえ、と言おうとして、
「――あ、雪…」
 私は鼻先にふわりと飛んで来たものを見て、全く別のことを呟いていた。
 私の目の前に居る魔術師が上を見上げたようだ。
 白い白い、小さな雪の粒がちらちらと舞って来ていた。初めは数粒だったそれは段々と数を増し、この結界の中に天候としての雪を演出していく。
 再び空を見上げれば、其処には私の好きな紅い月は無かったが、まるで空に吸い込まれていくような不安感と、体が宙に浮いて飛んで行ってしまえるような根拠の無い自由を覚えさせるような、魔術なんてモノよりずっと不思議で魔的な空が広がっていた。
 誰かの髪の様に白いそれは、呆れるくらい無為で意欲が無かったから。
 だから、この結界の中にもするりと入り込むのだろう。

 ああそうか、今日はクリスマスだったのだ。

 イエス・キリストの生誕の日。
 今から二千年も前に彼は生まれた。只一人世界のほんとうのことを知っていて、己の思っている事を絶対に正しいと信じ――そして貫き通して死んだ、
 不器用で頑固なおとこのひとである。

            ◆

 使う事も少ないのによく干されている布団からは、太陽の匂いがする。そんな布団の中に、額に濡れタオルを当てられた紅坂宵音は寝かされていた。
 傍らにはその家の主婦であり零辞の妻である、明日香が畳の上に横になって眠っていた。看病――というか、宵音の様子を見ている間に眠ってしまったらしい。部屋には換気が必要になるファンヒーターではなく、暖かな赤い輝きをじんわりと放つ電気ヒーターがたかれており、明日香の寝顔はこの上なく幸せそうだった。
 宵音の眼はとうの昔に覚めていた。今は何をするでもなく、ぼんやりとただ、木目をしっかりと見ることの出来る天井を見ていた。
 何十分、いや、何時間そうしていたのだろうか。宵音は天井から視線を外し、部屋の中を首だけで見回してみた。ヒーターの熱を体の左側に感じながら視線を巡らすと、そこにはこれでもかという程昨今の日本的な、しかも中流っぽい情景が確認出来た。
 どうやらこの部屋はお客様用といったところらしい。染み付いた人の匂いよりも木の匂いの方がまだ強く、調度品類も、自分の寝ている布団とヒーター以外には小さな箪笥が一つあるだけ。壁の柱にかかっているデジタル時計は夜中の三時を指していて、宵音は自分がまる一日以上眠っていた事に気付く。
 ふすまが開いて男が入って来た。宵音はその男に視線を向けようともしない。入って来た男は眠ってしまっている明日香を見て柔らかく笑い、膝の裏と背を抱えて、お姫様抱っこの形で彼女を寝室まで連れて行った。男が、そのお客様用の部屋に戻って来て、布団の横に胡坐をかいて口火を切った。
「久しぶりだな、宵音」
「――ええ」
「元気にしてたか」
「――…ええ」
 二度目の「ええ」は嘘か、とその男・零辞は思い、煙草の箱を取り出して――火をつけようとしてよした。確か、妹は煙草が酷く嫌いだったはずだ。ばつが悪そうにしてポケットに煙草の箱を戻すが、宵音はその動きを見ていなかった。それから零辞が言った。
「今まで何処にいた」
 白々しいのよ手紙を送っておいて、と宵音は思う。
「松本。だから今日も、別に夜がけで来る必要も無かったの」
 居心地悪そうに、布団の中でもそもそと向こうを向いてしまう。
 零辞は、そうかそんなに近くにいたのか、長野か、と独り言のように呟いて正面に視線を向けた。そこには何があるでもなく、ただただベージュ色の壁があるだけである。それからぱん、と自分のジーンズの太ももを叩いて、
「よしわかった。紅坂宵音、――尋問だ」
「…………うん」
 何が「うん」なのだろうか、と宵音は思っていた。
 尋問なんてものが形式上のものだということはわかっている。……きっと連合に密告したりなどという卑劣な事を、この兄はしない。半分は遊びで、けれど重要な部分だけはきちんと聞こうと思っているのだ。
 自分は、どうしてこんな場所にいるのかと宵音は思った。――あの結界の中に在った屋敷の中で敗北して、倒れ、この家に担ぎ込まれた、というのはわかりきっている。
「まず……、今まで何してたんだ?」
「何って」
「どうやって生活してたのかとか」
 彼女が思っていたのは結果の事だった。
 敗北だっていいだろう。それで倒れて、連合の世話になるなど、書類の整理をするだけでも絶対にごめんだと主張した自分と対立し、絶縁した筈の兄の家に担ぎ込まれたのだっていいだろう。
「別に普通のアルバイトよ。アパート暮らし」
「……――へえ。じゃ、遊ぶ暇なんて無かったんだろうな」
「…………」
 安いプライドなんてものは、成功への到達に支障をきたすのなら要らないと彼女は考える。敗者には敗者なりの、挫折した者には挫折した者なりのやり方がある。そこから立ち上がる方法を、幾たびかの辛酸と失調を味わっていた彼女は、経験上少しは知っていたはずだった。
「辛くなかったか?」
「別に……、辛くなんてなかったわ」
「そうか。なら良かったんだが」
 そこで会話は途切れた。
 学院から抜けた時、彼女は決めたはずだった。どんな手を使ってでも、例えどんな存在を敵にまわそうとも、自分は必ず“紫黒の領”に閉じ込められた姉を助け出すと。
 そこで皮肉にも、絶縁した兄が姉の閉じ込められているそこへ“到達させるモノ”を『所有しているかもしれない』という事を、自分と同じように連合から抜けた人間から聞いたのだった。
 だから零辞が、空岐とリリスに「敵たる宵音が来訪する理由は、紫黒の領へ“到達させるモノ”が屋敷に存在する万一の可能性があるから」と云ったのは、半分が嘘で半分が本当だった。――つまりは、あの屋敷には“到達させるモノ”が実際にはあるかもしれないと、零辞は知っていたのである。
 そういう訳で、宵音の零辞への憤りは、ほとんど殺意に近いものへと変わっていった。
 姉を助け出す手段を持っているかもしれないのに、どうしてそれを試そうともしないのか。
 しかし憤りがつのる反面、イギリスで別れた兄の消息はようとして知れない。
 そんな中での、あの手紙だった。――兄がどうやって自分の消息を掴んだのかは知らないが、これは好都合だと宵音は哂い、松本を発った。
 そして予想外の敵と対峙して敗北し、彼女は先刻まで敵の妻の看病を受けていた。
 死にも勝る屈辱だった。――しかし失敗したのなら、またやり直せばいい。少しも上手くいかなくたってまた頑張る方法も必ず見つかる。
 そう思っていた。
 そう思っていたのに。
 どうして、今度は立ち上がれないんだろう。
 どうして、新しく力が沸いて来ないんだろう。
 体中がだるかった。試しに布団の中で腕を少し浮かせようと思って、けれど惰気が勝ってそれすら叶わなかった。目玉を動かすのにも苦労するので、その瞳は真正面にある押入れのふすまを見つめたまま、まばたきをするだけだった。
 兄を見てほだされてしまったから? ――いや違う。
 自分の心が完全に擦り切れたから?――それはあるかもしれない。
 目的を見失ってしまったから?――そんなことはない。お姉ちゃんは助けたい。
 けれど今度の惰気は、今までのモノと何処か性質が違った。動かない腕は、半開きになった唇は、閉じた心は――全て、震えて動かない。金縛りにあったようで、脳と言わず筋肉と言わず、体全体がおまえは動いてはいけないんだと深刻な警告を発しているような気がした。ただのやる気の減退ではなく、第三者による拘束力のようなものを彼女は感じていた。
 やがて、その色の無い瞳から一筋だけ涙が零れた。
「……兄さん」
「何だ」
 零辞は準備をしていたように即座に反応した。
そこでひと時の間があって――、宵音は、こう尋ねた。
「……あの女の子、なんなの……?」
 震える少女の心をさいなんでいたのは、死への恐怖だった。
 彼女が“何”かなんてことは、彼女にはわかっている。しかし、何かと問わずにはいられなかった。“死”そのものがカタチとして現われた、と言った彼女の神経はあの時、その感情を表情に出す事すら許されずに、発狂寸前の所まで焼き切れかけていていた。それはそうだ。死というものを突然目の前に突き出されて、一体誰が正常でいられるのか。“死は神の意のままに”と嘯(うそぶ)く輩だって、きっと唐突に誰かに殺される事になったら、それまでの持論など完全に突き崩されて狼狽し、異常なくらいに慌てることしか出来ないだろう。
 彼女は兄にもう一度尋ねた。
「――わたし、どうして死んでいないの?」
 それは、先の戦闘への疑問と感想だった。
 自殺を試みた人間の台詞だと、零辞は思った。
 他者が手を下して死ぬか、自分が手を下して死ぬか。この違いは、果てしないと言うにもおこがましい程、壮絶に大きい。
 その果てしない距離をいとも容易く縮められ、彼女は他者の手によって与えられる死というものを受け入れかけていた。
 決して彼女が、突然完璧な自然死主義者になってしまったのではない。
 それほどまでの絶望に遭遇した、ということであり、遭遇した絶望は、実感としての死に他ならなかったということである。
 けれど零辞は言った。あの子だって人間なのさ、と。
「そんなの、わからない。――あれは違うわ。人間の皮を被っただけの、何か違うモノよ」
 そう言って宵音は、涙をシーツに落としながら諦めたような笑みを浮かべた。
「いいや。人間で、俺たちのいなくなった姉妹と同じ“クライン”だってだけだ。人間だからね。怒った相手にはそれなりの対処をする。今回はたまたまお前にその矛先が向く状況になった。それだけだ」
「嘘だぁ――…」
 口元を緩めて、くっくとおかしな顔で彼女は笑う。
「いいや。只の現実だ。それともお前は、連合のお偉方と同じ考え方をするのか?」
「――は、嘘でしょう……、――あんなの、姉さんとは違う」
 そう口にした時、宵音の中に小さな炎が灯った。それまで鬱屈として、加えて卑屈にもなって動かなかった体に力が宿って、根拠の無い自信と説得力の無い正義感が芽生えてくる。
 あんな化物と、姉さんを一緒にされてたまるものかと宵音は思った。一も二もなく、あいつは攻撃の意思をその身に表してきた。――しかもその怒りように、まるで人間性というものが感じられなかった。宵音はあの時の、あくまで無邪気な、けれど人間というものを心から嘲笑っていた少女の言葉を思い出す。

 (――「わたしの家に勝手に上がりこんだんだ。死んでも文句は無いな? わたしは死んでから文句を言いに来る奴が一番嫌いなんだ。――だってそうだろう? そうなるとわかっていた癖に……。まるで現実が受け止められないみたいに、今の自分ばかり正当化しようとするんだ。今そう在る自分だって、知らなかった昔の自分だって、自分だってことに何も変わりは無いっていうのにな。まるで、自分で自分を殺してるんだよ、奴等はさ!」 ――)

 怒りには理由がある。けれど、あの少女のそれには人間らしさというものが欠片ほども感じられなかった。自宅に侵入されたからといって、その人間を殺してしまう事が当然だと考える人間が何処にいるのか。
 ――あれは完全に人間というものの浅はかさを嘲笑って、自分に都合の良い優れた人間だけを残すために、ふるいにかける様に屠殺しようとしていた。
 ――過言ではなく、死神である。
 だからこそ自分は恐怖したのだ。
 そんなモノと姉さんを一緒にされてたまるものか。
 彼女のその怒りはあくまで純粋なものだった。現実を認められないのではなく、心の底からその死神と姉を同じ存在だとは毛ほども思えないという、正当な意見だった。
 そして半身を起こして布団を払いのけ、
「―― っあんな化も」
 大声でその事を主張しようとした時、平手が飛んできた。
 宵音は首を横に向けたまま、何が起こったかわからない、という表情で静止した。
 殴った当の本人、零辞も、
(何が起こってるのか、わかってないんだろうな。――まあ無理もないか)
 そう、半ば呆れたように思っていた。
 そうして、平手という驚愕が畏怖に変わる前にと、あくまで冷静に妹を諭す。
「――まずは、俺の仲間を化物と言ってほしくないな」
 宵音は動かない。――それからややあって、頬を片手でおさえたまま、視線を零辞の方に向けずに呟く。
「…………仲間?」
 零辞は、ああそうだ、と言って、
「あいつはあれで、俺の大切な仲間だ。“あいつの内の一人”は俺の事を大分嫌ってるみたいだが、俺はあいつの事を身内のように思っている」
「……片思いなんじゃないの?」
 零辞は、ははと短く笑って、
「そうでもないさ。――まあそれはどうでもいいことだが、あれで結構可愛いところあるんだぞ。人並みに人を好きになったり、料理をしたがったりな」
 宵音はその口調から推し量って、思った。この人は、あの死神が普通の人間であるという事を自分に教えようとしているのだと。
 零辞はあぐらの上に片肘をついて、呆れたような微笑を浮かべながら窓の外を見つめ、話し始めた。
「出来る事は家事全般。――ただし料理を除く。趣味は、古くさくて分厚い洋モノ小説限定の読書。それから一昨日まではお裁縫、か。服の趣味は……まあこれは大分特殊かな。日本にあるゴシックロリータなんかじゃあ飽き足らず、わざわざ外国の、本物のドレスを同居人にせがんだりする。好きな食べ物は同居人の作る食事なら全て。――ん、明日香――あ、俺の女房ね、――の作るものもか。嫌いなものはタコとトマト。好きな動物は、一人が猫でもう一人がカラス。嫌いな動物は人間の言う事を忠実に聞いている犬。一度俺と明日香であの屋敷に遊びに行った事があるんだけど、俺は蹴り出された。――私をこんなところに閉じ込めてる人なんて嫌いです、ってね」
 彼は面白そうにくっくと笑って、奥さんてあの人? と妹に聞かれると、短く、ああ、と答えた。
 そして、ややあってから続ける。
「――あれは何も知らないんだろうね。……なんかさ、常識がまるで無いんだよ。俺の二十倍くらいは生きているのにな。――どうしてだと思う?」
「そんなの、知りたくもないわ」
 宵音は、まだあれを人間だと認めたくなかった。いや、認めていなかった。
 零辞は彼女の方を一度見て、そして宵音ではない誰か哀れむような目をして言った。
「――あいつは人間にね、今までの人生の大半、追いかけられて過ごして来たんだ」
「…………何ですって?」
 零辞は顔色を変えてこちらを向いた宵音を横目に、無表情に見る。
「当然だろう。人間だからって、あいつは連合のお偉方やお前みたいな奴に化物視される“クライン”なんだからな。……逃げ延びて、生きるためには嫌でも人を手にかけなければならなかったんだろう。それで、連合はもっとあいつの追撃に力を入れる。――あいつは自分からは何も話さないがね。でもだからこそ、白君みたいな人間を必要としたんじゃないのかな」
「白君て、あの白子の奴?」
「ああ。俺は実は、白君の素性の方こそわかってない」
「どうして」
「あの二人は、俺が初めて会った時から一緒にいたんだ。白君はそれより昔の事を話そうとしないから、俺も立ち入っていない」
 宵音はそこに、言い知れようの無い不安感を覚えた。
 心の底が冷えるように、戦慄したと言い換えてもいい。
 改めて、――或いは今更ながら、あの男は何者なのか、という疑問が沸く。
「リリス――あ、あの女の子のことだ――の安定剤になってやれるのは白君だけだから、下手につついて居なくなられると困るし、――俺だって淋しいしな」
 あの、まるで樹木の枝のように無数に分岐した回路――血管の中で流れる魔力の図が、宵音の頭の中でちらつく。
 しかし、零辞は言った。
「――それはどうでもいいんだ。ともかく、ヒトにずっと追い回されて、ヒトを嫌いにならない人間なんていないだろう?」
 彼女は一瞬何の事かわからず会話の流れを遡り、ああ、とひとり呟く。零辞は続ける。
「そういう意味で、リリスのあの人間不信は自然なものだろう。自害を試みた痕もあったし、初めてあいつを見つけた時には、俺は殺されかけた」
 そうか――と宵音はただ、思っていた。
 そこまで精神的に追い詰められた実体験なんてものはないし、出来れば体験したくもないが、容易に想像はつく。
 そして、それでも死ねないものなのだ、と宵音は確信していた。
 そうやって死ぬ事も出来ずに、“紫黒の領”へ閉じ込められることをひたすらに恐れていたのだ。
 殴られた頬の痛みはもう、無かった。それでもまだ少し熱い頬を触りながら、彼女は思う。
 疑問は大方氷解して、先刻泣いたせいで眼が腫れぼったくなっている感覚を感じていた。――全身から力が抜けていたが、それはさっきまでの脱力感とは少し種類が違った。
 ――他者の死と自分の死という巨大な差もあるし、そこに居た期間だってごく短い間だが、
 姉が居なくなってしまうかもしれないという不安感に、幼少時代ずっとさらされて来た彼女には、多少なりとも、その少女の気持ちがわかるような気がした。
 荒む、という過程が痛いくらいによくわかっていたのである。
 擦り切れた時、人は他人が本当にどうでもよくなってしまい、自分独りで生きようとする。
 それでも誰かと触れ合いたいと思う時もあって、けれどそれはもう叶わなくなっている。
 ああ――
 あれはただの少女だったのだと、その時宵音は思った。
 暗くて怖い部屋に閉じ込められることをずっとずっと怖がっていた、一人の少女。
 どこまで逃げても追って来る大人の手を払いのけ続けていたら、大人たちは段々本気になって来てしまって、それを間違って銀のナイフで刺し殺してしまった。最初に人を殺してしまった時、彼女はまず、悪い事をした、という気持ちに耐えきれなくなって、自分の喉をその銀のナイフで突いたのだろう。――普通ならそこでお話は終わりだが、生憎とその銀のナイフは、どうしてか少女の喉には刺さらず折れた。
 ―― 己の引き出した魔力では、己を殺す事だけは出来ないのだから。
 世界の何処にも、
 一人たりとて、
 心の底から自分を殺したいと願える人間なんていないのだから。
 その時少女は気付いたのだろう。
 私は生きなくちゃいけないんだ、と。
 幼くして思ったのだろう。自分はもっともっと生きて、生き抜いて、何かしらの意味をこの世に残してからしか死にたくないと。
 それはきっと、あの暗くて怖い部屋に閉じ込められていたのでは出来ない。
 それはきっと、今みたいに自ら諦めたような真似をしていては成しえない。
「――ふ、くく……、く……」
 なんて自分に似ているのだろう。
 宵音は笑った。また、どうしてこんなことにすぐに気付かなかったのだろうと、なんだかおかしくなってしまったのだ。
 それを見た零辞は何も言わず、ただ黙って煙草に火をつけた。
 その笑い声が低い嗚咽に変わるまで、彼はずっとずっと黙っていた。
 苦い香草の匂いが、部屋に漂う木の匂いを塗りつぶしていった。
 
 
 泣き声が止むのを見計らって、零辞は窓を開け、灰を外に落としながら尋ねた。
 お前に、俺の所に“到達させるモノ”があるって事を誰が教えた、と。
 宵音がその人物の名を答えると、零辞は無表情に、そうか、とだけ言った。

            ◆

 零辞さんにあのお嬢を見送れと言われたので、今日の午前の仕事は休みになった。
 一昨日から振り続けた雪は、こんな都会にしては珍しく膝下くらいの高さまで積もっていたので、オレのブーツはメチャクチャになっていた。駅の構内の、改札の真ん前にある柱に寄りかかっている今でも、足の指先の感覚が無い。――冷てぇ。
 これだから都会は、とぼやく。
 真っ白い綿のような雪が、改札口に面したロータリーを往来する車やバスのわだちに散々踏み荒らされていて、今ではベシャベシャのシャーベット状になっていた。除雪作業がほとんどされていない。これじゃあ夜には氷付けになっていることだろう。
 雪掻きの動作自体ものろくさくてイライラするし、雪囲いなんてする筈がないので、ちょっと降っただけで積もった雪の重みに耐えられなくなった街路樹が見事に折れていたりする。それにこれはあまり関係無いが、北国で冬に交通事故を起こす奴のほとんどが都会からのスキー客だ。スタッドレスタイヤで満足してると死ぬぞ、全く。
 一昨日の朝に見た、華やかなクリスマスの飾り付けは嘘のように消えていた。元々そこになかったかのように完璧に撤去されていて、今日は、正月飾りである無駄にデカい門松を駅前のデパートの入り口に据えているヒトが居た。朝からご苦労様です、と白い息を吐きながら密かに呟く。
 今日のオレは例のローブは着ないで、昨日振り込まれた(個人会社の癖にきちんと銀行を通すのである)給料で買った普通のコートを着ている。ローブは土も火もついてぼろぼろになったから、リリスが「私が直します」と意気揚々と裁縫道具を取り出してきて、昨夜から修繕し始めた。
 まあ、いい事なんじゃないだろうか。普段はあの家から出られないこいつにとって、やることがあるっていうのは。
 ……なんだか同じ台詞を前にも吐いた気がする。
 そんなくだらない事を考えていると、隣にいるリリスが上目にこちらを見上げてにこにこと笑っていた。――そうすると愛玩動物(ペット)みたいだなと思いつつも、可愛いので撫でてやる。
 紐付きの白い大きな毛玉を引っ張るとフードの口が閉まるようになっているもこもこしたコート、鍋掴みのような、分岐の一つしかない手袋に小さなブーツ、というのが彼女の今日の格好だった。勿論我が家の生活費から買いましたよ、はい。
 彼女は今連合という不条理な脅威にさらされながら、命を賭してお嬢の見送りをするために此処にいる――わけではなかった。
 三時間限定、という微妙な条件付きで、リリスは『カンイケッカイ』なるものを施されて此処に居るのだ。それを施せば、魔力の出す波長を抑える事が出来るので網に引っかからないとか、なんとか。その『カンイケッカイ』なるものは式を編むのに非常に時間がかかるらしく、零辞さんは昨夜徹夜をしたので、今日は昼ぐらいまで起きないだろう。
 そんな理由で今日の午前中、黒種探偵事務所は全面的におやすみなさいな訳なのだが、零辞さんが自分を行けないようにしてまで、リリスをお嬢の見送りに来させた理由はわかりかねた。本当にわかりかねた。
 ――しかしお嬢は遅い。
 十時三分の電車で帰るというから十時少し前に来たのだが、今はもう十時十五分を過ぎていた。松本だというから、都内のどこぞで特急にでも乗れればいいわけなので、二本くらい乗り過ごしても構いはしないのだろうが――それにしてもこっちとしては、赤の他人に待たされる事程つまらないものもないと思う。……リリスのお散歩コースとしては良かったが。
 リリスは何を見ても新鮮らしく、此処に来るまでに「あれは何ていうものなんですか」をおそらく四十は連発しただろう。――疲れた。
 そうしてリリスが「あ、」と無邪気な声を上げた時、オレは浮浪者よろしく、柱の根元の所に、床にこびりついている古いガムもお構いなしに座っていた。
「…………なに、してるの?」
 オレは顔も上げずに、
「お見送り」
 とそいつに言ってやった。
 黒いジーンズと、ジャケット姿に、零辞さんが使っていたのを見たことがあるトランクを提げたお嬢がそこに立っていた。長い髪は降ろされていて、腰ほどの所まで垂れている。
「いやね、零辞さんに言われたから来ただけだけどさ」
 全く、何でこんな言い訳じみたことを言わなくちゃならないんだとオレが面倒くさげに立ち上がると、リリスが後を追った。
「デートなんです」
 違います。
 お嬢は鳩が豆鉄砲を食らった時のような顔をしてしばらく絶句し、少し遅れて「そうなの」と了解した。了解しないでください。
「――お兄ちゃんと仲直りは出来たのか?」
 からかうように言ったつもりだったが、お嬢は軽く笑って、
「ええ。――まあね」
 と何処か別の、遠くを見ながら答えた。
「はあ。なら良かった。円満解決、平和呆け出来る内が一番てね。それじゃあ俺は確かに見送ったから、これで」
 さっさと用は済ませて、残りの時間を自分のために使うべきである。――たとえそれがリリスのものになってしまったとしてもだ。
 そこでリリスの手を引いて歩き出そうとして、思い出す。そういえば。
「あの」
 振り返った時、お嬢が何故か声をかけて来たが、俺はまだ用が済んでいなかった。どうしてかうつむいてしまったお嬢を半ば無視し、コートのポケットをごそごそとまさぐるまでもなく、すらりと引き出したそれを、お嬢の手にしっかりと握らせて言ってやる。
「これはあんたの戦利品。遅いクリスマスプレゼントも兼ね、だそうだ。零辞さんから」
 されるがままにされているお嬢は、両手のひらにそれを乗せたまま、まだ呆然としている。ただ受け取った時にぽつりと「ありがとう」と呟いていた。
 オレがお嬢に握らせたそれは、革の鞘がついた銀のナイフだった。ウチの中それを探し出して、持って行くように零辞さんに言われたのだ。
 零辞さん曰く、『ナイフの形という意味』を込められてから――つまり、成ってから百二十年を数えるモノなのだという。お嬢の狙う、古い道具の内だということなんだろう。そのナイフが“紫黒の領”とやらに到達させてくれるかどうかは別として。
 差し出した自分の両手のひらの上のナイフを見つめながら、ややあってお嬢はぽつりとつぶやいた。
「……大丈夫なの? 右腕」
 なんと答えて欲しいのだろうか。
 因みに俺は今、リリスの『カンイケッカイ』のために後回しにされたおかげで、腕を包帯で吊っている。
 それを見て、皮肉のつもりで言っているのだろうか。
 それとも、自分が傷つけた事を悔いて言っているのだろうか。
 お嬢の口調からは計れなかった。そんなに長い付き合いであるはずもなければ、こいつが悪人か善人かなのか、はたまた名前さえ知らなかった。知りたいとも別に思わないが。
 けれど、
「ま、大丈夫だろ。気にするなよ」
 なんとなく――、なんとなくだが、こいつは悪い奴ではない気がしたのでそう言っておいた。
 根拠は無い。
 たとえ、『姉のために』という意味合いから戦っている奴だからと言って、それは世間様が認めなければ悪なのだと俺は思っている。逆に動機が少し不純でも、世間様から認められればそれが正義だとも思っている。
 全ては結果だろう、とオレは思う。世の中に迷惑をかけていたかいないかったか、だと思う。
 そういう意味で根拠はない。……どうしてかオレは、贔屓をしているのかもしれない。
「――よし、じゃあ失せろ。もう二度とこの町には来るんじゃないぞ」
 猫を追い払っているような台詞だと思いながらオレが促すと、お嬢はにっ、と、不敵で攻撃的で、しかし何処かあどけない笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、来るわ。此処はもうわたしの身内が住んでいる町なんだから、いつ来ようがわたしの勝手だもの。――あなたが先に行きなさいよ」
 前言撤回。命名、減らず口の猫女に決定。
 けれど意地張って睨み合うのも餓鬼っぽい。まんまとしてやられた感を拭いきれずに、オレは振り返って、今度こそ繁華街に消えようとする。
 そこでくい、とリリスに袖を引っ張られた。はたと立ち止まったようだった。何をしているのかと肩越しに振り返ると、リリスはお嬢に向かって手を振っている。
 そのばいばいの先にいるお嬢は、やはりさっきのように一度固まって、それからまた笑って「ばいばい」と手を振って来ていた。
 その時の顔は凄く眩しかった、と思ってしまうオレは、やはり男なのだと思われる。


 空岐はまるで、自分の失態を一歩ごとに踏み潰して行くかのようにずんずんと歩いていく。
 それがしかし、今しがた別れて来た筈の宵音に追いすがられ、引き止められ、何事か声をかけられていた。
 まるで別れた筈の子連れの夫に追いすがる妻、といった状況の中、きょとんとしたリリスが聞いた、たった二言の会話の内容はこうだった。
 
 あなた、本当は一体何者だったのかまだ訊いていないわ、と若干息を切らせた宵音が問う。
 空岐は、嘲りとも苦笑ともつかない笑みを浮かべて、やはりこう答えた。
 だから、只のいちフリーターに過ぎないって、と。
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